第64話 さざなみのじかん~七里ヶ浜④~
民宿は、休憩について快く引き受けてくれた。
海水をぽたぽたと垂らす俺達は家を汚す存在にもなりかねないのに、主さんにとっては結構なれた事らしい。
まだ海開きしていない時期に、海に飛び込む現象に陥るのは俺達だけではないようだ。
そのせいか主さんは手慣れた対応でタオルを俺達に手渡してくれ、更にはブルーシートで俺達の歩く場所を覆いながらも、シャワーのある一室に通してくれた。
狭い部屋ですまんね、とブルーシートを敷かれた六畳一間の部屋を案内されたが充分だ。
一番欲しいシャワーがあるだけで感謝感激雨あられだ。この辺では需要は高いからこそなのかもしれないけれど。
一通りの説明を受けた後で、扉を閉める音がした。
「……結夢、先にシャワー入れよ」
「えっ……でも」
「俺はどっちにしろ、服を買いに行かないといけないからな……それに、俺がいる状態で服着替えるのは恥ずかしいだろ」
「……さっき、手をやっと繋げましたけど……まだ」
でも、いつか、ちゃんと準備しますって。
それは心の声かな?
結夢も真正直にこの部屋で着替えずに、シャワールームの中で脱ぎ着はするんだろう。
さりとてシャワールームの中に着替えを持ち込むわけにはいかないし(着替えが濡れたら面倒だし)、シャワールーム前の籠に着替えを入れたりするんだろう。
「でも、もしシャワーをしている最中の私に何かあったら、迷わず入ってきてください……! 私が、裸でも……!」
ぎゅ、と胸で拳を作った結夢が恥ずかしさを突破したような顔でお願いしてきた。
「……分かった」
……ちなみに、俺が返ってきたら裸で結夢が困っていたとか、そういうイベントは無い。
結夢は新しい服に丁度着替え終えた所だったようだ。
俺もシャワーを浴びた後で、こんな提案をする。
「昔、よくドライヤーで結夢の髪乾かしてたよな」
「……あの頃は、自分の事もろくに出来ていなかったので」
「仕方ないさ。俺も菜々緒がいなければ女子の髪を乾かす事を特技になんてしていなかったさ」
そう言いながら、熱風を結夢の髪に当てる。
長い結夢の黒髪は、海水の塩分で少しだけぎこちなくなっていたけれど、カチューシャで一本ずつ丁寧に解いたら途端に綺麗になった。
線の一本一本を抑える左手から伝わる髪の感触。
後ろ髪を持ちあげている事によって微かに見えていたうなじ。
磯の臭いで隠し切れない、石鹸と結夢の香りが溶け合った匂い。
小さな肩。今度は白い半そでシャツで、キャミソールとかブラジャーの形が浮き彫りになっている。
まずい。
昔は、髪を乾かしている時にそんな如何わしい感情にはならなかったのに。
こんなときめく感情なんて出なくて、この髪を満足に乾かす事が出来たのに。
こんな時は話題転換だ。
「さっき、もしいざという時はシャワー浴びてても突っ込んできて、って言われて何かあるのかと思っちゃったじゃん」
「……礼人さんの事だから、きっと駆け付けてくれると思ってました……でも、罪悪感、抱いちゃうかなって思って……それに」
「それに?」
「……いざという時は、礼人さんにいの一番に、近くに居てほしいから……私に何かあった時も、礼人さんに何かあった時も……」
「……俺はいるよ。結夢の近くに」
結夢も、熱風のせいだけじゃなくて、恋愛モードによる興奮でちょっとおかしくなっていたみたいだ。
先生と生徒の間で難しい時はあるけれど、それでも結夢に何かあれば俺は全てを投げ出すつもりだ。
「あと……ね……。わ、わわ私のはぁ、裸を見る人も……礼人さんだけに、したい、から……」
「……そうだな。結夢の裸を他の人達に見られるのは嫌だな」
勿論、まだ覚悟が出来ていない俺らには、まだまだ少し先の話になる。
「でも、もしそうならないと結夢が助からないときは、俺は結夢の命を大事にしてほしいよ」
「勿論、です……二人で、長生きしようね」
「結夢の方が長生きしてくれよ」
「駄目です……礼人さんは、私がおばあちゃんになって死ぬまで、死んでは、駄目です……!」
『って何言ってるの私……』なんて心の声が漏れていなければ完璧だったんだけどな。
「髪乾かしてる時に、こんな会話をするなんて……三年前の俺らは想像していたのかな」
「そう、ですね……私は、そうなったら、いいなと……ぼんやりと、考えていました……」
「……」
ドライヤーの音が止む。
さらりとした髪から手を離すと、今度は結夢がドライヤ―を掴んできた。
「ありがとうございます……わ、私にも、礼人さんの髪、か、乾かして、させてください」
「お願い」
再びドライヤーの唸り声。
『失礼します』と言いながらも、俺の髪をくしゃくしゃとかき分けて、熱風を上手く当ててくれていた。
二分くらいでそれが終わる。
「結夢、ありが――」
振り返ろうとした。
振り返れなかった。
後ろから――結夢が、抱き着いてきたから。
しかしそれは一瞬で。
一瞬で十分で。
結夢の軽さが、重さが、暖かさが、肌の温もりが、全部伝わった。
振り返る事が出来た時は、結夢は物凄い恥じらいで息も荒げ、若干の申し訳なさと一緒に遂に口にした。
「だ、誰も見てない折角だから……ちょっと、ちょちょ、ちょっと挑戦してみました……」
「……背中に、天使の翼が生えた気分だよ」
「……そ、そうですか……」
俺は立ち上がり。
既に佇んでいた結夢の前、ゼロ距離まで移動する。
結夢は赤らめた顔をしながらも、逃げないで見上げてくれていた。
「……いつか、俺の
結夢は待つのではなく。
その小さな背をごまかすかのように、俺にしがみ付いて爪先立ちになって。
「んっ、らっ、ん、ん……」
一秒で終わるかと思ったが、何故か俺達は離れなかった。
思ったより互いの歯がこつん、こつんと邪魔になったけれど。
舌と舌が、十秒くらいからまった。
気絶しそうになった彼女の体を抱き留める形で、俺の方に寄せた。
結夢の温もりは、俺の方が気絶しそうなくらいに、愛おしかった。
漣のヒーリング音。
アスファルトを車が擦る音。
道を走る、誰かの話声。
民宿の誰かが一階を歩く音。
カモメの鳴き声。
俺達はそれを聞きながら。
折角観光名所に来たのに、休憩時間の三時間のうち二時間弱を無駄にして。
ずっと。
俺達はその場に、手を繋いだまま、座り込んだ。
最初、結夢は半分気絶していて。
何か話したと思う。
でも、俺も多分意識がここにあらずで。
ただ、互いの存在が気になって。
絡めた指だけは、解かないで。
ちょっとだけ、距離を近づけて、肩と肩を寄せて。
結夢が気絶しそうになったけど、でも段々落ち着いてきたようで。
海は、海風と漣の音色を送り続けていた。
俺達はそれをBGMに、再来週の中間テストも、先生と生徒との恋愛タブーとは何かも忘れ。
ただ、その二時間に集中していた。
「結夢」
「礼人さん」
最後に発した名前は、同時だった。
「もう一度、だけ……」
「はい、私も……」
今度は座っていて、立っている時よりもやりやすかった。
二十秒くらい、深く、深く。
深海よりも、深く。
ちなみに残りの一時間は、民宿への礼を込めて、民宿の掃除に使った。
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