第62話 ずぶ濡れ事件、再び~七里ヶ浜②~

 これは、二人の夢物語。

 俺達の時間が、もう一度開いて、閉じていかない物語。

 漣の様に、引いても、また押していく物語。

 

「また、とっちゃいました……」


 スマートフォンから、隠れていた結夢の細めた目が現れた。

 

 そんな物語を綺麗に留める魔法を、結夢はスマートフォンから放つ。

 この子はこれで何度目だろう。俺を撮るのは。

 しかも器用に食べ物とか景色をシャッターに収める時も、必ず俺をフレームに入れてくるのだ。

 写真を撮るのは得意じゃない俺のせいだろうか。まだ結夢の写真が撮れていない気がする。

 

「ほら、結夢。足元気を付けてないと、スカートが海に浸かるぜ」

「わっ、わっ」


 結夢は自分が波打ち際に裸足を踏み入れていたことに気付いたようだ。

 

「つめ、たい……です」


 決して不快じゃない顔で、寧ろ心地よいような表情を見せてくれていた。

 次の瞬間には、ロングスカートを捲り上げてぱちゃぱちゃと水面を刺激しながら、こんな提案をしてくる。

 

「礼人さんも入ってみてください……気持ちいいですよ……!」

 

 そんな風に微笑まれては、俺も入らないわけにはいかない。

 結夢の手に引かれて、俺は共に波打ち際に捲し立て済みの足を差し込んだ。

 足は意外と水面と砂に沈み、向こう脛の所まで海面は浸食していた。

 

 うお、確かに冷たい。

 でも、何故か心地よい。

 気温が7月並みだからだろうか?

 いや……この綺麗な青の光景と、手を繋ぐ結夢が芯から温めてくれるからだろう。

 

「どこまで行けるかな」


 俺はふと、呟いた。

 水平線の向こう目掛けて。泳げないくせに。

 結夢の手を繋ぎながら。

 

 澄んだ水色と少しだけ濁った水色に挟まれた一つの直線を見つめながら、また呟いた。

 

「まあ今は、ずぶ濡れになっちゃうからまだ行けないんだけども」


 俺達はまだ進めない。

 まだ知らないから。学んでないから。

 ……『答え』を出してないから。

 

「江ノ島はもう、あんなに遠くに見えますよ……たった三駅で、私達沢山来ちゃったんですね……」

「あそこまでくらいだったら、水着ならいけるかな」

「あ、あの……すす、水泳教室、頑張れば……」


 かなり本気で答えてやがる。

 水着を着るのも、泳ぐのも苦手なくせに。


「結夢の場合はまずは海水に慣れる所からかな?」

「そ、そうですね……」

「だからこんな風に、ほい」

「ひゃっ!?」


 少しだけ海水に手を突っ込んで、結夢の方に水をかけてしまった。

 物凄い想定外といったように顔を硬直させて、少なめの水滴が体にかかるのを待つだけになっていた。

 まあもちろん服が汚れても困るし、ほんの数的程度だったけど、唐突で驚かせてしまったかな。


 ちょっとだけ困ったような顔になって、でも楽しそうに笑窪を作って。

 結夢は、ちょっとだけしゃがんで片手で水を掬うと俺に飛ばしてきた。

 

「い、い、いけない人には、ここ、こうです……!」


 挙動不審なぎこちない救い上げの動作で、思ったより多くの水滴が俺に飛んできた。

 髪の毛から被った俺の顔、多分酷い事になる。

 

「ひゃ、ひゃ、れ、礼人さん……!? ぎょぎょ、ご、ごごご、ごめんなさい……あ、ちょっと待ってください、ハンカチを今鞄からとってきて――」


 干上がった海も満たされそうな、泣き虫結夢五秒前の彼女の手を改めて握る。

 砂浜に戻ろうとした結夢の体を引き留める。

 

「今暑かったから、丁度よかった。ありがと」

「……はい……優しい」


 漏れた心の声を聴きながらも、俺はまた結夢と駆け出した。

 砂浜の上を走りながら、水をかけ合いながら、色んな所から水平線を眺めた。

 色んな場所で結夢の姿を見た。

 結夢に負けじと、結夢の写真も取ったりした。

 結夢は恥ずかしがって、いつも隠れようとするので上手くピントが合わないけれど。

 

「駄目ですよ恥ずかしいです……それより、もっと、海の方へ歩いてみませんか……?」


 この子意外と海の汚れとか全く気にならないタイプなのね。

 俺は誘われるままに進もうと思ったが、膝まで着いた辺りでいったん止まってみた。

 波の満ち引きもあって、俺はズボン、結夢はスカートに着水し始める。

 水面の反射が、俺達の服までもう少し。

 

「ここら辺、までですかね……」

「そうだな、結夢もそれ以上スカート捲ると……見えるかも、だしな」

「……ひあっ、あっ、えっと……」


 それを指摘されて、今自分の体勢がどんなに大変な事かを気付いたみたいだ。

 スカートを膝元まで捲り上げている訳だからな。これ以上捲り上げれば、見えちゃうわけだ。下着が。

 今日はそういえば、何色のどんな下着を身に着けてんだろう。

 既に細くとも、ぷにっと柔らかそうな太ももがちらりと見えている訳だしな。

 

「……えっと……戻っていいですか……砂浜まで」


 どうやら頭が冷えたらしく、結夢は砂浜まで戻る事を提案した。

 俺はそれを受け入れ、戻る時だった。

 

「わっ、わっ」


 海中の足場が悪かったのか、結夢が仰向けに倒れた。

 倒れたって、まだここは海上だ。


「結夢……!」


 俺もつないだ手を基に、結夢を手繰り寄せて抱えようとするが――うわっ、視界が回転した。

 俺も足を取られ――。

 

「あぶっ」


 結夢を抱きかかえる前に。

 二人揃って、海の中に着衣のまま、沈んだのだ。

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