第42話 ちょっとずつ、物理的に、距離を縮めてみる


 午前七時。

 俺達は、同じタイミングで目を覚ましていた。

 差し込んだ朝日に照らされた互いの寝顔など見る暇もなく、顔と顔が目前にあった俺らは。

 

「ひゃ、ひゃあああああ!?」

「……っ!?」


 と、当然の反応をしてお互いにソファから落ちてしまった。

 一階でよかった。結構凄い音が鳴ったぞ。

 お互いに髪の毛ボサボサのまま、間近で見合っていた。

 結夢は改めて視界が悪いと感じたのか、眼鏡をかける。ああ、この子本当に眼鏡が似合う。

 新鮮な気持ちだ。

 

「……ご、ごめんなさい、私、礼人さんと一緒に考えて、たた、たのに……寝てしまうなんて」

「いや俺もだよ……」


 髪を描き分けていると、液晶に映った自分のボサボサ頭を見て顔が沸騰する。

 

「こ、こんな髪型でれ、礼人さんの前に……い、今の記憶、忘れてください……!」

「いや、忘れてと言われても」

「あ、ああああああああああああ!」


 俺も大分酷いと思うんだが。

 しかし結夢は限界だったようで、洗面所まで走って行ってしまった。

 

 ……どっか行きたいのは俺の方だよ。

 

『ぐがあああああああああ』


 そしてこんな時間に菜々緒いびきかいてんじゃねえ!

 さっきまで菜々緒にバレたらどうしようと思ってた労力を帰せ!

 

 とりあえず、平常運転だ。こんな時こそ。

 そうだ、いつもこんな時は何をしている?

 料理だ。

 そうだ、俺はいつも味噌汁を作って、だし巻き卵を作っている。

 

 清々しい朝じゃないか。

 休みの土曜日にはもってこいだ。菜々緒みたいな寝坊ではいけない。

 

 という現実逃避も、なぜか制服姿に戻っていた結夢が台所に駆け込んだところで露と消えた。

 

「あの……申し遅れて、ご、ごめんなさい……お、おはよう、ご、ございます、すす……」

「……ああ、お、おはよう」


 結夢は俺の隣に並び、当たり前の様に料理を手伝い始めた。

 

「だ、だし巻き卵……すごい、手馴れてますね……」

「俺の得意料理だからな。菜々緒が好きなんだ」

「なな、なななななちゃん、卵、す、すす、好き、好き、好き好き、ですから……ね」


 好きって言葉に物凄い反応してやがった。


「昨日は、良く寝れたか?」

「ふふ、不思議とね……安心してててて、寝れたた、んですよ……?」

「俺も、だ」


 俺も、結夢もエプロン姿。

 寝ぼけ眼からは、もうとうの昔に卒業している。


「あの、昨日の事は、夢じゃ、ないんですよね?」

「夢じゃあ、ない……夢じゃない。あのノートが、物語っているだろう?」


 テーブルの上に置かれたノートには、『生徒と先生が手を繋いで幸せになるにはどうしたらいいか?』について色々書きだした跡が確かに残っていた。

 勿論、結夢はそもそも菜々緒に見せる訳には行かなかったので、直ぐに閉じてしまったが……それを抱きしめながら、結夢はとことこと俺の隣に走ってきた。

 笑顔で。

 

「……また、一緒に、考えましょう」

「……ありがとうな」


 結夢は首を横に振る。

 

「嬉しくて、仕方なくて……」

「……そうかい」

「……でも、やっぱり、こ、こうして、近くにいると……ドキドキするの、治らなかったです……」


 両手でモジモジしながら、申し訳なさそうに結夢。


「焦らないで行こうぜ。俺の我儘みたいに。いくらでも付き合うからよ」

「付き……あふ……私達……これで恋人、同士、とか……」


 俺の彼女、沸騰タイミングが未だに良く分からない件。

 

「でも……だから、かな……」

「何が?」

「礼人さんと……キ、キスしてる、ゆ、夢……見ました」


 包丁を持つ手が異常に震えた。

 あぶねえ、危うくほうれん草じゃなくて俺の左手ギロチンするところだった。

 

 未だ夢心地みたいに、細めになる目。

 祈る様にカーディガンに隠れた両手を胸で祈る様に結びながら、どうやら夢を思い返しているらしい。

 

 そして、一瞬自分の唇に意識を集中させたのが分かる様に、唇に手を近づけた。

 

「礼人さん、寝てる時……キス……すれば……良かった……」


 君も起きてたんかい。

 心の声が漏れる習性のせいでこの子、隠し事は一切できないな。

 

 ……したって。

 君のファーストキス、もう奪ってしまったよ。

 君の唇と舌は、世界のどの花よりも、きっと甘い味がしたよ。

 

 忘れられない、大切な甘味だったよ。


「その内……ちゃんと、向かい合ってキスするぞ……」

「……!」


 はっ、と結夢が振り向いてきた。

 その仕草の一つ一つが可愛かったのもあるけれど、きっと純粋に俺を見てくれるこの眼鏡の下を、好きになったんだろうな。


「……うん。私たちの、速度で、ゆっくりと、ね……?」

「……もしかしたら君が望む速度よりも、亀みたいに遅いかもだけど」

「私達、三年間会っても連絡しても無かったから……きっと、そのくらいの速度の方が、私達、らしいです……」


 そう言うと、結夢は少しだけ距離を縮めてきた。

 

「その前に、私は礼人さんの隣で、何でも出来るように、ならなきゃ……」


 また半歩。距離を縮めてきた。

 

「……それも、亀みたいで速度でな」

「……」

 

 また半歩。

 歩けば一瞬だった距離に、十秒かかった。

 

「うん……」


 僅かに、俺の右側と結夢の左側が、ぴと、と触れて――。

 

 

「――そうだ!! 結夢ちゃんの朝飯久しぶりだから起きなきゃだあああああああああああ!!」

「ひゃああああああああ!!」

「わったった!!」


 菜々緒!

 なんてタイミング登場してきやがるんだこいつ!


「何急にびっくりして! 二人とも朝から元気だねぇ、何二人でダンスしてんの?」

「一番元気なのはお前だよ……!」

「……おはよう、結夢ちゃん……」

「残念なことに、今日の朝飯はいつも食べてる俺の料理だかんな。結夢のトレンドも入ってるけど」

「れ、礼人さん……! 指! け、怪我! 怪我してます!」


 結夢が青ざめた顔で差したのは、俺の指。

 包丁でぱっくりやっちゃった俺の指だった。痛みはなく、指摘が無いと気づかなかった。


「ああ大丈夫だよ。良くやっちゃう奴だから」

「駄目ですっ! こ、こういうのは! 下手すれば破傷風とかに繋がって! だ、大惨事になる可能性があるんですから……! ちょ、ちょっと待ってください……!」


 物凄い勢いで鞄からガーゼやら包帯やら薬やら取り出すと、俺よりも親身になって熱心に指を巻き始めた。

 俺も菜々緒も、何も言えなかった。

 気付いた時には、消毒液が痛いくらい染みた指が、包帯に整頓されて巻かれていた。

 俺も力が抜けて、泣きそうになっていた結夢の頭を撫でた。

 

「ありがとう。すっげえ綺麗」

「ふあ……」


 泣くのか沸騰するのかどっちかにしてくれ。

 そこも可愛いんだけど。

 

 

 結局、その後菜々緒がいたので、そういう意味では何もできなかったけれど。

 菜々緒にも分からない様に、俺達の秘密の恋は始まった。


「頑張ってね」


 正直、結夢を送り出す時の、『やっとか……』みたいな顔をした菜々緒の顔が引っかかってるけれど。

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