第38話 笑顔が消えない様に、太ももに跡をつけてあげるよ

「……! ……えーと、あの、あの、えーと……」


 物凄い結夢が挙動不審になった。

 目が渦を巻いてしまって、必死に言葉を探し始めた。

 どうやら事の重大さに、後から気付いたらしい。

 

「あ、あの……つ、つまり……私達、け、け、結婚して……しまったと、という、こ、ことです、か!?」

「いくら何でも気が早すぎる」


 と自分で言ったものの、恥ずかしながら考え直してしまう。

 つまりは、俺が行った事は、結夢がうんと頷いてくれたのは次の言葉なのだから。


「……まあ、お付き合いするというのは、結婚を前提にってもんだから……あながち気が早すぎる訳でもないけどな……」


 結夢と結婚したら、か。

 既にそれはある程度経験してしまっているような気がする。

 仕事帰りに俺が玄関に辿り着いた時、エプロン姿で扉を開けてくれる結夢。

 隣で料理してくれて、味見を要求する結夢。

 ソファーで密着して、一緒に液晶の向こう側を見つめている結夢。

 

 ……お付き合いしなくても、大体俺は経験していないか。


「でも……でも、すみません、今私、色々信じられてなくて……これ、今、私、ゆ、夢ににににいる訳じゃないんですよね……?」

「生憎残念なことにこれは現実なんだ」


 目が泳ぐ魚になってる結夢が、自分のワイシャツに手を書ける。

 脱ごうとボタンを外そうとして、しかし顔が最高潮に真っ赤になって脱げない。


「……あっ……私……告白成功するなんて……思ってなかったから……この後……裸になる……ゆ、勇気が……」

「よし畜生待つんだ。一回深呼吸してマインドフルネスだ。俺は君の体目当てなんてことはないから安心してくれ」

「だ、だだ、だって……私読んでる恋愛小説……お、男の人、ゴールインしたら、き、気持ちよさそうに、ベッドでとなりどうしあなたとあたし裸んぼぼぼぼ……」

「『この物語はフィクションであり、実在の個人組織とは関係ありません』っていう言葉があってだな」


 というか愛読書の恋愛小説、中々に大人向けな件。

 結夢さん、思ったより進んでらしたんですね……。

 

「…………一応、俺は今の所結夢にそういう方面の事を強要する気はない」

「……」

 

 えっ、もしかしてショック受けてる?

 一瞬顔が残念そうになると、結夢は再びボタンを外そうとして、しかし躊躇ってしまっていた。

 間違って口紅を顔に塗ったのかと言わんばかりの赤い顔になりながら。

 

「成長してない……体ですけど……れ、礼人、さん、さんが、ま、満足、で、出来るように、これから頑張って牛乳飲んで、お、大きく、なります……」

「体の前に、精神的に俺の前で裸になったらショック死する可能性があるからこそ慎重になりたいってのもある」


 結夢の成長に胸は入っていないようで、ちゃんと育っている膨らみは本気で武器と思ってないらしい。

 だけど、今の俺には中途半端な付き合いしか出来ない可能性がある。

 

「さっきも言った通り、君と俺は生徒と先生だ。つまり、付き合っているという事を周りに話す事は出来ないし……君の体まで俺のものにするような付き合いは出来る自信がない」

「……うん、それなのに……私の気持ち、受け取ってくれただけで……うれしいです……本当に、本当に、嬉しくて……」


 実際の所、結夢の気持ちにちっぽけにしか答えていないのに。

 結夢がきっと求めていたものは、ずっと一緒にいる事だったろうに。


「礼人さんの……笑顔も悲しい顔も、一番の特等席で見させてもらえるのが……嬉しいです……」

「悲しい顔だなんて。案外泣かされるのか?」

「ち、違います……私は……悲しい顔をしている時に……何か出来ると思って……」

「……優しすぎるかよ」

「だだ、だだって……理想の男女って……家族って……そういうものだと、思うから……」

「……」

「だから、私……礼人さんの、教育を大事にする気持ち……尊重したい……です……一緒に、一緒に、悩ませて、ください……礼人さんが……納得する、幸せな付き合い方について……」


 俺は、ぽつりとつぶやいた。

 

「ありがとう……」

「……でも、せっかく気持ち、受け取ってくれたのに……ドキドキ、克服出来ないです……」

「いや、さっきまで密着したら気絶した時と比べれば、膝枕まで出来たし……充分進んでるよ」

「……にへ、にへへへ……あの、膝枕だと……不思議と、大丈夫なんです……」

「なんで……」

「わからないです……でも、膝枕なら……」


 結夢が、膝をそろえる。

 スカートに隠れたまっしろな太ももが、俺を待つかのように律儀に閉じられていた。

 

「あの、よ、良かったら……」

「……」


 俺は、いつかの猫の様に。

 甘えて、結夢の太ももの上に顔を置いたのだった。

 

「……」

「……」

「……」

「……」

「……」

「……」

「……」

「……いつも、お疲れ様です」

「……」

「……」


 頭、撫でられていた。

 俺、気が気でなかった。

 でも、ここから頭を話したくなかった。

 

 俺の眼は、結夢の空色なカーディガンでいっぱいだった。

 俺の感覚神経は、結夢のスカートの意外な滑らかさと、その下の乳肉でいっぱいだった。

 

 塾には行ってきたいつかの猫になりたいと願った事がある。

 結夢に腕の中、膝の上でこうやって横たわって、全て結夢に預けたかった。

 あの時、猫は子のスカートの中に入って、胸に抱かれて……そんな幻を見ていた。

 その幻も、今俺の現実を埋め尽くしている。

 寂しい夜にならないように、俺の後頭部を母親の様に撫でながら。


 なんだか、太ももがふれている右頬だけじゃなく、撫でられている高等部だけじゃなく、天使の翼に包まれている様に全体が暖かい。きっとエアコンのせいではなくて、結夢のおかげで空気全体が春の陽気のように暖かい。

 

 ……先生と生徒の恋愛について。

 その答えが出た時、結夢を傷つける結果になるかもしれない。

 猫のひっかき傷のような、簡単に消えてしまう様な傷にならないかもしれない。

 でも俺は、こうして自分事の様に俺を好きでいてくれた結夢に、応えたい。

 結夢が高校卒業をするのを待つんじゃなくて、俺が塾を辞めるなんて安直な方法じゃなくて、こんな儚い関係からでもちゃんとハッピーエンドを迎えられるようになりたい。

 

 この優しい顔を、もっと優しくしてあげたい。

 俺はそう思いながら、結夢の頬をそっと撫でた。

 

 結夢は大きく目を見開いて、恥ずかしさで顔を震わせていた。膝枕ならいいのに、頬を触られるのはだめなのか。

 思わず手を引こうとすると、その手を抑えてくれた。

 ほとんど肉なんて無い筈なのに、もっちりした熱い頬をそっと撫でさせてくれた。

 

「にへ、にへへへ……」


 別に、生徒と先生の壁なんて無くても。

 今はただ、この笑顔だけで充分だ。

 この熱に触れると、俺も笑える。

 君と、笑える。

 この笑顔をどう守ってやろうか、それを考えるだけで胸がいっぱいだ。

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