第32話 少し二人の距離を離しても、やっぱりドキドキするもので

「す、すみません……い、言い出しっぺが……まったく、すす、進んでなくて……」


 菜々緒が寝て暫くして、しょぼくれながらも真っ赤な顔で俯いていた。

 机の上には、相変わらず白紙な俺たち二人の解答用紙があった。

 

「……まあ、とりあえず休憩するか」

「だ、だめです……まったく出来ていないから……」

「それでも結夢が集中しきってた事は事実だと思う。人間の脳みそは一時間超えて集中出来るようになってないんだ。塾も一コマって単位で区切られて、休憩時間が設けられているだろう?」


 台所に行く。

 飲み物の一つでも取らなきゃ、頭回らないしな。

 

「俺珈琲飲むけど、結夢どうする?」

「私淹れますよ……!」


 とことこと忙しく近づいてくる。

 

「ありがとう。でも俺はいいから、少しゆったりしてなって」

「……でも」


 だけど多分、まだ彼女の中でこういった緊張感を緩和させないといけないのかもしれない。

 手伝っている方が落ち着くのかもしれない。

 

「……礼人さん……珈琲淹れるの……すごい様に……」

「いやいや。入れてるのインスタントよ?」

「ふえっ!? あ、あれ、また……」

「漏れてたな。心の声」

「…………えっと、その……」

「まったく、結夢は褒め上手だな」


 手渡した珈琲から出る湯気が、本当に結夢から出ている様に見えた。

 

「時に、もう少し距離を置いてみるか」

「えっ」


 物凄い残念そうな顔をして、珈琲を運ぶ手を止めた。

 

「……礼人さんに……やっぱり……ど、どこかで嫌われるようなことを……」

「待て待て待て待て凄く待て待て待て待て待て違うそうじゃない絶対に違う」


 後一秒止めるのが遅かったら、大粒の涙がこぼれる所だったぜ……。

 この子が悲しくて泣く姿は、正直冗談でも見たくない。

 

「実際あのソファに二人並ぶのって、教室よりも近いと思うんだ」

「あっ、……はい」

「だから俺がソファじゃなくて床座る。それならある程度リハビリの距離になるだろ」

「いえ、私が下に行きます……! そんな、礼人さんを床に……」

「ソファの方が勉強しやすい?」

「え、ええ……」


 二回瞬き。瞳が二回点滅した時は、誤魔化してるのサイン。

 ソファの方が勉強しやすいんだな、多分。ふかふかだからな。


「それに俺、床に座ってる方が書きやすいから大丈夫」

「……そ、そういう事であれば……」


 そうして俺は結夢の向かい側に座り、勉強を開始する事にした。

 

「……」

「……」


 先程よりもシャーペンの音が良く響く。

 まだ結夢も若干『ドキドキ』状態にあるとはいえ、答案内容も悪くない。


「れ、礼人さん、中学生の内容で恥ずかしながら……ここなんですけど……」

「図形問題って閃きが大事な時もあるからな……それに進学校の入試問題レベルだから仕方ないさ。えーと」


 だけどやはり教える時だけは、体が近づく。

 それに互いに気づくと――。

 

「ひゃっ、あっ……!」

「……!」


 俺までドキドキする事になる。 

 平静になろうと呼吸を整えている結夢を決して笑う事が出来ないのだ。


「……という訳でヒントの線引いといたから、これでやってみな……」

「あっ、はい……ごめんなさい、あの……」

「それから結夢……謝る回数減らしてみようか」


 俺も自分で言ってて、自然と出た言葉にあれ? と思った。

 だけど、結夢に直してほしい所ではあったから敢えて言う。結夢だから言う。

 

「人は感謝の言葉を言われた方が嬉しいからさ」

「……はい、ありがとうございます」

「どういたしまして。でも、俺も教えるのが好きだから……どんどん教えさせてくれ」

「……はい」


 安心したような、上目遣いの笑顔がそこにはあった。

 ……結夢は、昔よりも『ごめんなさい』の数が増えた気がする。

 そこを放っておくことは、少なくとも俺にはできなかったから。

 

 先生だから?

 ……多分、違う気がするけれど。まあ先生だからという事にしておこう。

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