第11話 マドレーヌの味が甘酸っぱいと感じたのは初めてだった

 決して、結夢の肩もみが上手かったわけではない。

 特に身長もない彼女は握力もなく、逆に握っている方の結夢の指が折れてしまうんじゃないかというくらいの儚さ。

 でも、スーツを通して伝わる、その指の一つ一つの暖かさと、柔らかさ。

 真剣な結夢の、ぱっちりとした瞳から伝わる眼差し。

 まるで心を揉み解したい、心からそう思っている故の、結夢の真心を俺は振りほどく事は出来なかった。

 

「……上手いじゃん。お父さんの肩、良くもんでたのか?」

「き、効きますか?」


 顔を覗いてくる結夢の方が救われたかのように、眼が仄かに煌めいていた。

 

「ありがとう。何か、元気出たよ」

 

 ゆっくり頷くと、結夢の顔が緩む。

 

「にへ、にへへへ……良かったです」


 笑窪が刻まれた頬。

 俺まで笑顔になってた。

 自然に、落ち込んでいた感情を起こしてくれていた。

 

「結夢。勉強はいいのか?」

「今日の分は終わりました……! だから、後は柊先生の悩みを少しでも吹き飛ばせたら……そう思って、肩もみしてます。下手くそでごめんなさい」

「いや……物凄い助かる」


 整体師から見たら、そりゃ赤子のようなものなのかもしれないけれど。

 でも俺にとっては、世界中の名医にやってもらった時よりも、間違いなく至福の時だった。

 

 この子には、本当に不思議な力がある。

 昔から、天使みたいに心を癒す力がある。

 

 結夢の手は好きだ。

 小さいくせに、全力で抱き留めようとしてくる。


 結夢の香りも好きだ。

 石鹸やシャンプー、香水じゃ作れない。

 安らいで眠くなる子守唄のように、鼻から入って心を擽ってくれるから。


「そうやって私達の事、レポートしているんですね」


 机の上に開かれている、生徒達のレポートを見て結夢が続けてくれた。

 言葉も、肩もみも。

 

「読みやすい字ですよね……昔から礼人さんはそう」

「礼人さん読みに戻ってるぞ」

「ご、ごめんなさい……柊先生!」

「後は、あまり先生のレポートは見ない様にな」

「……分かりました」


 小さくなった声を聴いて、注意しすぎたと思った。

 結夢はこうなると、距離を置きたがる。

 つまり、俺の肩から手が離れる。

 でも俺の手が、小さな掌の上から重なっていた。

 

 彼女の変わらぬ手の甲も、ぷにぷにしていて、柔らかった。

 細いのに、本当に女の子の肌は不思議だ。

 

「柊、先生……」

「悪い。もう少しだけお願いしていいか?」

 

 ……これくらいなら、多分先生と生徒の境界は破ってないと思うから。


「先生が頑張ってるの……私は知ってますから……」

「……頑張るのは当然だよ。俺はずっとこういう仕事がしたかったんだから」

「……でも、さっきの生徒さん……綾鷹君……あんなの、酷過ぎます」

 

 再び結夢も手が止まった。

 と思ったら、その甲の上に滴る水。

 

 まるで俺の事の様に、泣いてくれていた。

 嬉しかったけど、結夢がこんな風に泣くのは、見たくなかった。

 

「……ひどすぎる……礼人さん……あんなに頑張ってたのに……」

「泣くなって」


 流石に焦る。礼人さん呼びに戻ってるし。

 次第に涙は止め処なく溢れ続け、決壊したダムみたいに頬を流れていた。

 この子はもう……。まあこういう所が可愛いというか。

 俺はハンカチを取り出して、結夢の小動物な顔に似合ってしまっている涙腺を拭いていた。

 

「ありがとう。結夢。俺は大丈夫だよ」

「……本当ですか?」

「結夢のおかげで元気が出た。結夢って昔からこういう人を癒すの、得意だよな」

「……嬉しいです」


 結夢も落ち着いたような、優しい笑顔になってくれた。

 嬉しさが恥ずかしさに転じたのか、落ち着かない様子でモジモジしているし。

 もっとも、目元は潤ませたままだ。まだハンカチは必要みたいだ。

 

「そ、それでですね……柊先生、昔から好きかな……っていうのを作ってきて……」


 学生鞄から結夢が袋に包まれたものを取り出して、俺に手渡してきた。

 しかしそこで恥じらいゲージがピークになったのか、玄関に向かって逃げる様に距離をとってきた。

 俺の反応を見るのが怖いみたいだ。


「お、お口に合わなかったら残していただいても大丈夫です……!」

「お菓子か? これ」

「そ、それでは、また」


 もう一度結夢を見ようとしたが、玄関の彼方に消えてしまっていた。

 忙しい子だな。と思いながら袋を開ける。

 

 結夢の手作りであるマドレーヌと、手紙が入っていた。


『礼人さん。いつもありがとうございます。少しでも頑張る力になるように、礼人さんが好きなマドレーヌ焼いてみました。でも無理しないで下さいね!』


 俺なんかよりも綺麗で達筆で、しかも物凄い丁寧に書いたのが分かる便箋だった。

 

『PS.明日は3人でピクニックだから、それまでの辛抱です!』

 

 そう、明日は。

 菜々緒と三人でピクニックなのだ。ミモザ公園に。

 

「美味しいな……ちくしょう」


 口の中に入った小麦は、結夢が必死に台所に向かう姿を情景させた。

 あの子はどうして、ここまで人を想うお菓子が作れるのだろう。

 光を思わせるような、花畑で寝心地良く横たわれるような、甘酸っぱいマドレーヌが作れるんだろう。

 

 

 ところで。

 明日ピクニック、俺と結夢だけのデートとなってしまったのだ。

 それも、生徒と先生の垣根を越え始めてしまうような一日になるのだった。いい意味でも、悪い意味でも。

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