第9話 猫になりたい

 塾の近くの電信柱に、こんな言葉と共に猫の画像が張られていた。

 

「行方不明の猫、探してます!」


 鈴を首に着けたであろう飼い主の悲哀が窺い知れる。

 とりあえず俺は『この猫が後ほどとんでもない事をやらかすという事』は予想していなかった訳ではないが、不思議とこの張り紙が頭に残っていた――。

 

 

 英語を生業にする塾講師は多い。

 文系の先生も、俺みたいな理系の先生も英語は基本大学受験で使うからだ。

 今日の二コマ目も授業は、結夢ともう一人。どちらも高校英語だ。

 

「……いろんな文法をこれから覚えていくと思うけれど、この文型を知っているのと知っていないのとでは吸収度合いがまるで違う。とりあえずは基本中の基本だから、難しいけれど身に沁み込ませていこうか」

「分かりました、柊先生」


 結夢の前に主語とか動詞とか、それらを記号化したもの、その例文を並べながら一通りの説明を終える。

 俺の授業は基本、生徒への対話を心がけている訳だが、その中でも結夢は柊先生とちゃんと約束を守ってくれている。

 彼女の事だからケアレスミスも案外しそうなものだが、今の所は大丈夫そうだ。

 

「じゃあこのページの問題解いていって。分からない所があったら聞く様に」

「はい」


 返事を聞くと、俺はもう一人の生徒への説明に入ろうとしていた。

 しかしその男子生徒――秋田律樹あきた りつきは、本でも目前の備え付けホワイトボードでもなく、床を見ていた。


「どうした律樹」

「……先生、猫が入ってきたんすけど」

「猫?」


 本当だ。

 教室に猫が入ってきていた。

 丁度首元の鈴が小さく鳴っていたから俺も位置が特定できた。

 

 あれ、さっきの張り紙の猫じゃない?

 っておい、どこ行くんだ。

 

 猫は突然俊敏な動きを見せると、席に登ったのだった。

 ちょこんと前の方に座っていた結夢の席、その後ろ側の隙間に。

 

「ひゃっ、ひゃっ!?」


 結夢の背中に頬をすりすりする猫。

 しかも押し付けている体は、明らかに彼女の紺色チェックのスカート――尻の部分にも触れていた。

 おい、こいつ変態だぞ。

 

「わっ、わっ、にゃ、にゃんこ!?」


 結夢が振り返ると、器用なタイミングで床に降ろす。

 

「こら、こいつ!」


 俺が捕まえようとするが、猫の素早さには叶わない。

 鈴を鳴らしながら今度は結夢の足元に引っ込みやがった。流石にそこには色々壁があっていけない。

 そうこうしている内にこいつ、今度は結夢の三角地帯にまで上り詰めやがった。


 スカートとソックスの間。

 細く、しかし柔らかそうな白い太ももの部分から、スカートの中に入り込んだのだ。

 

「あっ、ひゃん……っ!」


 流石に助け出せず、顔を逸らしたね。

 律樹も逸らしてたね。

 耳に入った声は、俺も今まで聞いたことの無いような喘ぎ声。

 結夢も何をしたらいいのか分からない、泣き顔になるよ。

 スカートに覆われていて良くは見えなかったが、間違いなく秘境にこの猫、顔をうずめていたからね。

 

「柊、先生、助け」

「結夢、だいじょう……ぶっ!?」


 流石にこのエロ猫から救い出さないと、結夢の精神が持たなそうだったので変態呼ばわり覚悟でもう一度猫と向き合うが――即座に回れ右をせざるを得なかった。

 スカートの中から猫が上に跳んだ時、俺達の目が彼女にとって毒だと判断した。

 呼吸が止まるかと思った。

 

 スカートは台風よりも完全に捲れ上がる。

 雪のように細いのに、見ただけで包み込まれそうな太もも。

 その付け根。

 肌よりも白い、純白下地に星の模様が無数に入った三角形。

 あどけない天使のような印象を、逆に更に際立てるような、一種の芸術がそこにはあった。

 禁断の領域に、しかし猫は顔を擦り付けていた。

 少なくとも人間がやれば、猫も食わない様な豚箱行の所業だよ!

 

 でも結夢の下着を見てしまった。

 目を逸らしたけれど時すでに遅し。

 って律樹。お前も見てたんかい。

 

「わっ、わっ、わっ」


 しかし再度見ると、結夢は大事な所に頬を擦り付けられた事に気を取られたのか、スカートがふわりとなった事については気づいていないようだった。まあ、とても自分のパンツが見えている事にすら今は気づける状況じゃないもんな。

 で、羨ましい猫はどうしたかというと、今度は結夢の胸にまで登っていた。

 これは結夢が捕まえる為に抱きしめているといった方が正しいのか。

 

「だ、だめですよ……もう、めっ、です」


 手馴れてるな。

 人と会話するときは基本俯くか、顔を赤くするかのどちらかなのに、動物とならいけるのか。

 でも、さっきまであなたの大事な所を責めてた変態猫ですよ。


「お腹が空いたのですか? ……ちょっとここにはご飯がないから……ちょっとだけ我慢しててね」


 包み込むように結夢は更に抱きしめて、優しく猫の背中を撫でていた。

 ……ところで、結夢は悪い言い方でよくある『貧乳』ではない。かといって『巨乳』でもない。

 多分、美乳だ。

 

 何が言いたいかというと。

 猫が埋もれている部分が、丁度結夢の真ん中のせいで、強調されてしまっているのだ。

 恐らくそこまでしっかりした下着ではないせいなのか、自然の胸の形がカーディガンに刻まれていた。


 今日何度目を逸らしたんだろう。

 律樹も見たのか、同じタイミングで目を逸らした。

 

「よし、とりあえずその猫は事務員さんに何とかしてもらうよ。授業どころじゃなくなるし」

「はい……よろしくお願い……離れようとしないですね」

「こら猫、お前もそろそろいい加減に……うわっ!?」


 この猫、俺に威嚇しやがった……。

 そして再び結夢の母性の化身に甘え始めやがった。

 このエロ猫! 変態猫! 豚箱に突き出してやろうか!


「あ、あの、私なら抵抗しないので……このまま、事務員さんに届けてきます……!」


 止む無く結夢が授業を中断し、玄関の事務員に届けに行った。

 結夢の後姿を見送ると、律樹(高二、思春期の男子生徒)が突然口を開いてきた。


「……先生。俺、猫になりたいっす」

「そりゃまたどうして……」

「猫になれたら、ああやってスカートの中入っても、女子のおっぱいに埋もれても、女子風呂入っても咎められないんっすよ?」

「律樹……、とりあえず問2が凡ミスしてるからもう一回やり直そうか」


 ちなみに律樹は進学校である緑ヶ山高校の男子で、いつも快刀乱麻の答えっぷりを誇っている。

 ……秀才の思考回路に異常をきたしているのは間違いなかった。


「許してください先生。あんなパンチラやら胸を見せられては、健全男子である自分は正直平常心が保てないっす……なんというか、あれで高校生って言うロリっぷりが……」

「正直に懺悔を吐露してくれたのは分かった。一緒にマインドフルネスしてやるから、集中力を取り戻せ。ライブでも使えるから多分」


 横に置いているギターケースが、俺よりも似合う奴だと思ってたのに。

 でもまあ、あの庇護欲引き立てる天使みたいな顔は、こうやってペンを走る手をおかしくさせる効果があるらしい。

 

「律樹。俺も正直、猫になりたいと思った。先生失格だ。軽蔑するならしてくれ」

「仕方ないっすよ……先生は先生である前に男性なんだから。俺は軽蔑する奴を軽蔑します」


 生徒が大人な奴で助かった……。

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