第8話 「にへる」

 結夢のアパートに辿り着いていた。

 しかし俺達二人の魂は彷徨っていた。

 

「ごめんなさい……私が変な事言ったばかりに」


 俺は窓の方を見ながら、礼人と呼んでいいかどうかの質問に答える。

 正直、この子を直視しながら言葉を紡げる自信が無かったからだ。

 結夢を見たら、自分を見失いそうな気がする。

 でも正直、俺の中で答えは決まっていた。

 

「塾以外の時は、何とでも呼べばいい」

「……いいん、ですか?」

「塾の時だけは、呼び方気を付けてね」

「ありがとうございます……礼人さんも、今は塾講師の立場なのに、こんなわがままに応えてくれて」

「なんというか……君から先生呼びはしっくりこない。だったら昔みたいに、礼人って呼んでくれた方が腑に落ちるっていうかさ」


 思わず返事がないから結夢を見ると、物凄い顔がほころんでいた。

 

「にへ、にへへへへ、にへへへへへ」

「今の文脈のどこに、にへる要素があったんだ……!?」

「ふぇっ、ふぉ、ふぉめんなさい……!」

 

 しかし、あどけなさが更に加速してやがる。

 マシュマロみたいに柔らかそうで、しかし桜を思わせる色の頬が目に映っちまった。

 ……正直ぷにぷにしてみたい。


「それじゃ……礼人さん……大丈夫です。塾では礼人さんの、お手を煩わせる事はしません」

「生徒は先生のお手を煩わせてなんぼだ。存分に利用してくれ。とりあえず塾ではあまり昔の関係を思い浮かべる事をしなきゃいいよ」

「昔の関係……」


 あっ、顔が震えだした。

 これ変な方向に勘違いしてるやつだ。

 菜々緒以上に言葉を気を付けないとこの子、変な方向に暴走しちゃう。

 

「……でも、礼人さんの先生という立場からすれば、本当はやってはいけない事をしてまで、家に入れたり、車で送り迎えしてくれたりだから……私は、もっと礼人さんにお礼がしたい、です」

「まあ、そこは結夢が気にする事じゃないよ。俺達塾講師が考える領域だ」

「凄いですね……礼人さん、プロ意識がすごいです……久々に会って、すごい大人になったって感じました……背も凄い伸びてるし……」

「そう思ってくれたなら僥倖だ」

「あの、せ、先生になった礼人兄さん、ほ、本当にかっこよかったです……! スーツ、姿も様になってて……あの、また塾行くの、楽しみで……」

「お、おう、ありがとう」


 嘘だと思えない所が結夢の凄い所だ。

 めっちゃカーディガンの袖振って来るし、知ってか知らずかめっちゃ距離近いし。

 

「そういえば結夢。札幌で何か、辛い事でもあったのか?」


 車から降りた辺りで、結夢に問いかける。


「何か誤魔化して答えようとするとき、瞬き二回する癖。治ってなかったんだな。俺達が札幌の事聞いたらずっとその状態だったぞ」

「……そ、それは」


 この子の場合、誤魔化そうとする内容は大体決まってる。

 恥ずかしい話か。

 あるいは――闇の深い話で、俺達の手を煩わせたくない話か。

 

 こういう子なんだ。

 誰かの傷は癒しに来る……自分の傷を無視して。

 だからその辺りには、勿論傷を無理にひっぺ返す様な無粋な真似はしない様に、でも頼る時には頼ってくれるようにしないといけないんだ。

 

 じゃないとこの子、一人で戦いたがるから。

 

「いつか、話したくなったら話してな」

「……ありがとう、ございます」

「それから、ずっと言えなかった言葉があった」


 ふぇ? と結夢が俺の顔を見上げる。

 ちゃんと真正面から、心底伝えたかった言葉があったから。



「結夢、おかえり」



 すると、結夢の顔がほころぶ。

 恥じらいとかではなく、嬉しさに心が溶けて、表情が綻んだ感じだった。

 

「ただいま」

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