2話・3

 予備催眠をかけたあと、明らかに阿南の表情は変わった。視線が定まらず、ぼんやりとした表情で虚空を見つめている。

 椅子にもたれずとも倒れずに座っていられるのは、体幹がいいからだろうか。



「えっと……阿南さん大丈夫?」

「んー。ちょっと、ぽわぽわしてるけど平気……」



 キョージンとは違う反応で戸惑った。

 彼女の中で何が起こっているのか、理解できなくて混乱する。

 ともかく、予備催眠をかけたら解くか進めるかしないといけない。頭を切り替え、マニュアル通りに本催眠に入っていく。



「じゃあ、俺の目の中をよく見て……」



 言うと、阿南のとろんとした瞳とぶつかる。



「……」



 キョージンのときは別段なにも思わなかったけど、このやり方ってもしかしたら恥ずかしいかも……。

 ってしっかりしろ。ひとまずやり切ることを考えよう。


 パチンと指を鳴らして、阿南に眠ってもらう。

 椅子から落ちないように肩を支え、上体を安定させる。

 ここまではうまく進んでいる。次は暗示だ。



「あなたは、言葉の出し方が思い出せません。ぼーっとしている感覚を感じれば感じるほど、言葉の出し方を思い出せなくなります。けれど、言葉は出ないけど、なぜか『ワン!』となら喋ることができます。OK、3つ数えて目覚めると、あなたは言葉を忘れて、ワンとしか言えなくなる。必ずそうなる。3、2、1……」



 パチン。


 指を鳴らしながら肩を押さえて軽く刺激を与える。

 それに呼応するように阿南は顔を上げ、閉じていた目をスッと開いた。



「おはようございます……?」



 恐る恐る声をかけてみると、阿南は「うーん……?」と唸って、わずかに顔をしかめながら首をかしげた。

 ……あれ、変化なし?

 あれだけかかってそうな雰囲気出してたから、また期待して力を入れてしまった……。

 恥ずかしさ再来。黒歴史へまた一歩驀進ばくしん


 諦めて前のめっていた体を起こし、後ろの窓へと寄りかかった。その流れで、前の席でガン見していたキョージンへ肩をすくめてみせる。

「まあ、そーだよな……」と、キョージンも失笑して話し始めたときだった。



「わんわんっ」



 話題は即座に放棄した。

 ふたりでガバッと声の方へと向き直ると、阿南は口を押さえ、突然しゃっくりでも出てしまったかのような顔をしていた。



「えっ………………かかってる?」



 聞いてみると、口を塞いだまま小さく首をかしげる。

 いやそこはしゃべってよ。



「にっちゃん、自動車レースといえば、エフ?」

「……ワン?」

「いやそれじゃわからないから」



 ボケる二人にすかさずツッコむと、



「わん。……っ!」



 おそらく笑おうとしてぽろりと出てしまった「わん」に、阿南の顔がみるみる赤くなる。

 な…………まじで?


 黙って顔を見合わせていると、無情にもチャイムが鳴った。

 クラスの人たちが次々に席に着くので、おれたちも慌てて解散する。



 SHRが終わるとすぐに1限目の教科の先生が教室に入り、そのまま授業が始まってしまった。

 嫌な予感というか、むしろ関知というか。蒔いた種は必ず回収をされる。物語とはそういうものである。



「じゃあ、この問題を阿南さん」

「わん! ……っ!?」

「って、まだそれ続いてんの!?!?」



 運悪く先生に当てられて真っ赤になる阿南に、まあまあの声量でツッコむキョージン。

 そしてざわつくクラスに、唖然とするおれ……。


 お遊び催眠術が授業に入っても続いているなんて、よもやの世界だった。

 どきどきと鼓動が早くなり、混乱と焦りでどっと汗をかく。

 キッと阿南から非難の視線が飛んで来るが、教科書で顔を隠してガードした。



 授業のあとで、阿南にめちゃくちゃ謝ったのは言うまでもありません。

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