終末の始まり、秋の訪れ。 5




***




静かな夜明けだった。

雲ひとつない淡い色の空の下で、歩くたびに砂埃を上げる地面を蹴りながら、三つの影が重なるように後方へと伸びる。


一定の速度を保ちながら、決して離れぬように。

瓦礫の山を踏み越え、薙ぎ倒される電柱を掻い潜り、一歩一歩進んでいく影を何かが横切った瞬間、三つ目の影が「うわっ、」と声を上げ僅かに揺れた。





「大丈夫?」



「あ、はい……すみません、ただの鳥に驚くなんて」



「気にしないで。あまり気を張ってると、すぐに疲れちゃうから」




「もう少し気楽にね」と。

僅かに微笑んでそう言う華に、先頭を歩く獅子尾が呆れた様子で「情けねぇな」とため息をつく。



たかが鳥に驚くなんて自分でも呆れるが、夜の間、暗闇を警戒しながらずっと最後尾を歩き続けていたのだ。


長く続く警戒心の中で気を張るなと言われたところでそう簡単に解ける筈もなく、人目を避けるようにまた歩き出す二人の背中を見つめながら、千秋は思い切ってずっと気になっていたことを問いかける。






「あの、これからどこに向かうんですか?」





店を出てから、何時間歩いただろうか。


出発してすぐに軽い自己紹介をして、男のことを獅子尾さん、彼女のことを華さんと呼び、俺のことは呼び捨てで敬語もいらないということに落ち着いたが、それ以降会話という会話は一切なく。


行き先も知らないまま夜通し歩き続け、休む間も無くここまでやって来たのだ。



いい加減行き先ぐらい教えてくれてもいいだろうと、

先程の繁華街よりも少し錆びれた街のような景色を眺めながら問う千秋に、獅子尾の冷たい視線が突き刺さった。




「なんだ、もうへばったのか」



「いえ、そういう訳じゃ…」




確かに身体は疲れていたが、それよりも何をそんなに急いでいるのだろうという疑問が浮かぶ。基本、夜道を歩くのは危険が伴う故誰もが避けるはずなのに。華さんが居るなら尚更、わざわざ進んで夜道を選ぶ理由が理解出来なくて頭を傾げる俺に、華さんが苦笑いで振り返った。





「わざわざ夜中に移動しなくても、朝になるまであの店に居ればよかったのに。って思ってるんでしょ?」



「うっ……はい、すみません」



「ううん、謝らないで。誰だって普通ならそう考えるもの。あそこの店主が逃げてなければ私たちもそうするつもりだったんだけど、何せ獅子尾が派手に暴れちゃったからねぇ」



「あ?俺のせいかよ」



「店主が戻って来ないとは限らないし、どの道あそこに長居は出来なかったから。これと言って行く宛てはないけど、とりあえず冬までに南下出来ればいいなとは思ってるの」



「冬…ですか」



「うん。出来るだけ暖かい方へ移動したいなって」





確かにここ最近、肌寒い日が続いているなとは思っていたが……そうか、もうそんな時期が来るのか。


正直毎日が死物狂いの生活で忘れていたが、寒さを凌ぐ為に暖を取るにしても、以前までならボタンひとつで叶った暖かさはもう手に入らない。

旅を続ける以上多くの荷物を抱えるわけにも行かないし、 行く先々で必要なものが必ず手に入るとも限らない中で、気候の変化は時に命取りとなる。



だから南に向かうのだと、そう告げる彼女に、ふとあの店で言われた事を思い出した。




"世界が今どうなっているのか、日本がどうなっているのか、知らないことには何も始まらない"




…知って、そのあとはどうするんだろうか。



一体二人がどこから来て、どのような景色を見てきたのかはわからないけれど。

途方もない道のりを乗り越える為に最善の選択をする二人に、僅かに引き離された距離を小走りで追いかける。





「行き先は、毎回獅子尾さんが?」



「いや。南下すると決めたのは華で、 俺はそれに従うだけだ。さすがに無茶な行き先を告げられたら文句ぐらいは言わせてもらうが 、今のところそういう事は一度もないし、結局最後は主人の決めた事だ。華がこうするって決めた時点で、俺に拒否権なんてねぇよ」



「へぇ。そう言う割には、すぐに私に駄目だとかやめとけとか言ってる気がするけどなぁ」



「なんだかんだ最後には折れてるだろ。じゃなきゃこいつを一緒に連れて行こうなんざ思わねぇつの」




主従関係と言うよりも、まるで気の知れた恋人のような。相変わらずの互いに砕けた物言いに驚きながらも、千秋は華に対する考えを改める。



いくら従者とは言え、獅子尾の方が圧倒的に知識や経験があるのは確かで、てっきり今の今まで千秋は獅子尾がすべてを判断していると思っていたのだ。



南下するという決断も客観的に見て正しいと思うし、無論獅子尾がそれを判断したと勝手に信じて疑わなかった。


軽い自己紹介の際も彼女はまだ十八歳だと言っていたし、その年齢でもしかしたら生死を左右するかもしれない判断を下す訳がないと。


まさかこの男が、素直にそれに従うとも思ってもいなかったのに。



一体なぜ、この男は彼女に従うのか。

ふと店を出る前に見せられた焼印塗れの身体を思い出し、千秋は獅子尾の背中を見る。



一見普通に見えるが、目の前に居るのは、いくつもの焼印を隠し持つ男だ。


焼印は基本一人に一つ。その数は今まで仕えた主人の数と比例し、同時に、多ければ多いほど焼印を持つ者の狂気を容赦なく示しつける。


爛れた皮膚を見れば容易にその痛みを想像出来る程、下手をすれば命をかけるような契約を幾度となく重ね、そうして仕えた主人を殺してきた男。



その男が今、新しい主人を見つけて目の前にいる。


彼女が男のことを、忠犬というより狂犬だと言った意味も今ならわかる。



あの時、焼印を見せられしばらく絶句した俺に、二人は何も言わなかった。けれど最後に一緒に行くと決めたのは自分で、この選択が間違っていたとは思わないが、疑問はずっと付き纏っていた。



本当に、この男について行ってもいいのだろうかと。

一体この男は、何人の主人を殺してきたのだろうかと。いくつもの焼印は、その数だけ主人を殺した証となる。

それなのになぜ、彼女はこんな危険な男を従者にしたのか。



考えても問わない限り返ってこない答えに頭を抱えながら、突然「ねぇ」と僅かに顔をこちらに向けて声をかけてきた彼女に「はい!」と上擦った声が出る。



それに彼女はクスクスと笑うだけで、 後ろ向きで歩きながら俺の顔を覗き込んだ。





「ずっと聞きたかったんだけど、千秋は地震が起きる前は何をしてた人なの?」



「前、ですか?前は……別に、極普通の大学生でしたよ。医学部の二回生で、あの地震が起きた日は大学の寮に居たんです」




そう答えると、彼女は一瞬驚いた表情を浮かべて「全然普通の大学生じゃないよそれ」と呟いた。





「医学部ってことは、入るのも大変だったんじゃない?」



「そうですね。特別頭が良かった訳でもないので、死に物狂いで勉強しました。家も普通の一般家庭で浪人するお金もなかったし、田舎からこっちに来たのでかなりお金がかかっちゃって……現役合格した時には親父に泣かれました」




「もう、死んじゃいましたけど」と。

自傷気味に笑う俺に、彼女が口を噤ぐ。



今でも、鮮明に覚えているのだ。

毎日毎日、何時間も机に向かって勉強した日々を。


勉強ばかりする俺に母親は毎回違う夜食を作ってくれたし、父親も俺の大学進学の為に必死に働いて、いつも陰で応援してくれていた。


だから俺もそれに応えようと必死に勉強したし、現役合格して親父に泣かれた時も、自分では気付いていなかった密かなプレッシャーから解放されて、安堵したのをよく覚えている。



きっと、あの日が夢への第一歩だったと言っても過言ではないぐらい。

両親にとっても、俺にとっても、俺が医者になることが家族全員の夢で、あともう数年すれば本当に叶う筈の夢だったのだ。



ーーーあの日、あの地震さえなければ。





「…結局、全部無駄金でした。あの地震のせいでもう大学には行けないし、両親だってもう生きてません。こんなことになるのが最初からわかっていれば、金のかかる医学部になんて行こうと思わなかった。その金を、もっと家族の為に使えばよかった。いくら考えたってもうどうしようもないのに、 そんなことばかりずっと考えて、後悔してるんです」



この世界になって、嫌と言うほど痛感した。

人は、本当にあっさり死んでいくのだと。

学歴など、なんの足しにもならないのだと。





「……本当に、良いご両親だったんだね」



「今思えば、ですけどね。本当に居なくなってからじゃないと親の有り難みがわからないなんて、とんだ親不孝者のクソガキですよ俺は」



「そんなの、誰だってそうよ。突然世界が変わって、突然当たり前にあったものがなくなって。あの日から今まで、後悔しなかった人なんてきっと一人も居ない」





「だから、無駄金なんて言わないで」




その彼女の言葉に、思わず足が止まる。




「もうこの世界で、ちゃんとした医学を学んだ人間が何人生き残っているかわからない。だけど医学はこれからもっと重要になるわ。医学という名の知識の財産を、千秋は自分の努力とご両親のおかげで得たんでしょう。いくらお金がかかっても、いくら後悔しても、医学は絶対生き伸びるのに役に立つ時が来る。その時に、きっと実感するわ」





今までの人生で、無駄なものなどなかったのだと。


彼女の表情だけでは読み取れなかったが、きっと彼女自身も、多くのものを失って来た筈だ。


それなのに穏やかに、けれど強い眼差しではっきりと告げる彼女に、思わず問いかけてしまう。



主従関係を結んで、わざわざ危険な旅に出て。

獅子尾さんと二人きりでここに居る時点で、彼女の両親がどうなったのかなんて聞く気にもならなかったけど。だけど。





「……あの、本当に十八歳なんですよね?」





あまりに達観した彼女の物言いが気になって聞いてしまった俺に、獅子尾さんが盛大に吹き出した。



声を上げないように口元を押さえてはいるものの、笑いを堪えるのに反して僅かに肩が震えていて、初めて見たその反応に驚きつつ「笑いすぎでしょ」と彼の背中を小突く華ちゃんに、慌ててしまった、と頭を下げる。





「すみません、つい、反射で…」



「いいよ、言われ慣れてるから気にしないで」



「顔と中身が老け過ぎてるからな。俺も言われるまで気づかなかったし、誰だってそう思うだろうよ」



「や、そういうわけじゃ、」




老けてるとかそういう事じゃなく、中身が……彼女の考え方が成熟し過ぎているような気がして。


俺が18歳の時を思い出すと余計に感じてしまうのだ。彼女の物言いや、大人びた言動の違和感を。


この世界が彼女をそうさせたというよりも、元からずっとそうだったような不思議な感覚。


明確には説明し難いが、獅子尾さんもきっと俺が気付くよりも先に感じていたに違いない。

彼女が、妙に大人びた落ち着いた思考を持っていることを。




「これでもあの地震が起きるまでは私も普通の女子高生だったんだよ。誰かさんに制服姿を見られた時は、コスプレかよって笑われたけど」



「誰だそいつ。失礼な奴だな」



「まぁ言ったのは目の前にいる獅子尾とかいう男なんですけどね」




恐らく、本気で自分が言ったことを忘れていたのだろう。彼女の言葉にしばらく考える素振りを見せ、僅かに溜め込んでから「そんなこと言ったっけ」と言葉を溢す獅子尾さんに、華さんは「言ったね。私はちゃんと聞いたよ」と力強く頷く。



どうやら、これがこの二人の"通常運転"らしい。


主従関係を結んでいるとは思えないほど砕けた話し方や態度をする獅子尾さんに最初は驚いたものの、ある意味お互い対等に接する二人に関心する。



やはり主従関係を結ぶ前は、恋人同士だったのだろうか。はたまた兄妹か親戚か、どちらにせよそういう類の関係なのだろうか。


考えても意味などないことはわかっている。

けれどそんなどうしようもない思考を巡らせなければならないほど、この二人の関係はとにかく異様で。


一人でも生きていけそうなこの男が、彼女に仕えるメリットなど見当もつかないというのに。


一体この二人はどこで出会い、なぜ主従関係を結んだのか。





「あの、ずっと気になっていたんですけど」


「ん?」



出会った時から気になっている疑問を再び口にしようとした瞬間、背後から勢いよく吹き付ける湿った風。



砂埃を巻き上げるような強風と凍えるような冷気を浴びせるそれに僅かに足元を掬われながら、華さんは大丈夫だろうかと視線を巡らせ、獅子尾さんが砂埃から庇うように彼女の肩を抱き寄せるのを捉えて安堵する。



先ほどまで淡い色をしていた夜明けの空はいつの間にか曇天に変わっていて、獅子尾の口から僅かに舌打ちがこぼれた。




「さっさと寝床を探した方が良さそうだな」



「そうね。多分、もうすぐ雨が降るわ」




そう言った彼女の言葉通り、ポツリ、ポツリ、と次第に水滴が全身を濡らし始めた。


無意識に早くなる足並みと吐息。

暖を取る手段もままならない今、だんだん寒くなって来たこの季節では、僅かに濡れるだけでも体に響く。


早く濡れる前に寝床を…せめて、屋根がある安全な場所を探さなくては。





「あそこにしよう」




獅子尾が見つけたのは、二階建ての小さなビルだった。

落ちかけの看板を見る限り、元々は建築会社の事務所だったのだろう。所々コンクリートの壁が剥げ落ち物々しい雰囲気を醸し出しているが、屋根や安全面を考えると、寝床にするにはもってこいの場所だった。


しかし。




「誰かが住んでる可能性は?」




思い出すのは、先程のBARでの出来事。

生き残っている人間が善人ばかりではないことを、先程のBARで嫌と言うほど痛感した。仮にすでに誰かが住んでいたとしてもそいつらが善人とは限らないし、こちらには華さんが居る。



どちらにせよ、人が居た場合の選択肢は限られていた。





「もし誰かが先に居たとして、俺たちのことを受け入れてくれますかね?」



「無理だろうな。得体の知れない他人を受け入れたところで、どっちが先に寝首を掻くかなんて時間の問題だ」



「じゃあ、」



「けどこの雨の中でこれ以上進むのは避けたい。次に見つけた場所に誰かが住んでる可能性もあるし、体力にも限界がある。最悪誰かが居たら眠るのは無理だが、雨宿りぐらいは出来るだろ」




「お前、何か持ってるか」と。

唐突に問いかけられて思わず首を横に振る俺に、獅子尾さんが何かを投げ渡す。



見れば、それは手に収まるぐらいの小型のサバイバルナイフで。





「念のためだ。絶対になくすなよ」



「……これ、どうやって」





ーーー殺せというのか、これで。

たとえ殺さなくとも、ただの脅しに使うとしても、もし何かがあればこれを使わなければならない。獅子尾さんが言う念の為とは、そういうことだ。




もし殺されそうになったら、これで先に殺せと。


遠回しにそう言われているのを察して、そんなこと出来るわけがないと更に首を横に振る。




「そんな…無理ですよ。俺には出来ません」



「念のためだって言っただろ。誰も居なけりゃラッキー、誰か居れば殺られる前に殺る。脅すだけなんて甘っちょろい考えが通じないことぐらい、今まで散々実感して来ただろうが」



「そうですけど、でも、」



「あのなぁ、お前は一体何のためについて来たんだよ?あ?自分の身くらい自分で守れ、やったことねぇならせめて慣れろ。今はもう誰も傷付けずに生きるなんて不可能なんだ、それが出来ないならさっさとどっか行っちまえ」



「…っ、」





獅子尾さんの言うことはもっともだった。

けれどなかなか決心がつかない俺の目の前で獅子尾さんと同じようにナイフを手にする華さんを視界に捉えて唖然とする。



なんの躊躇いもなくナイフを持つ彼女の目には、迷いなど一切なくて。



俺の葛藤を見据えたように、僅かに振り返って小さく笑う。




あぁ、そうか。





「行くぞ」






世界はもう、変わってしまったのだ。

残酷にも、非現実が現実に変わる世界へと。





ナイフを持つ手に、ギュッと力を込める。







背後には、土砂降りの雨が降っていた。



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