終末の始まり、秋の訪れ。 4
「何でもします!もし道中で何かあれば、真っ先に切り捨ててくれて構いません。だから、だから…っ」
ここで進まなきゃもう、生きている意味がない。
「駄目だ」
男の眼差しは、どこまでも冷たかった。
まるで暗闇に突き落とされるような、目の前が一瞬で真っ暗になって、唯一の希望が消え失える感覚。
蝋燭の火だけが照らす静かな空間で、彼女が「…獅子尾」と眉を下げ男の顔を見上げるが、男はそれに一瞬眉を潜めるだけで、無情にも冷たく現実を突きつける。
「情に流されるな。 最初に言ったはずだ、長生きしたいなら簡単に他人を信じるなって」
「…でも、一人でこの先を進むのは危険よ」
「だからって一緒に連れて行ってどうする。ただでさえ食料も水も何もかも足りねぇのに、食い扶持がもう一人増えるんだぞ。連れて行ったところで俺たちにメリットは一切ないし、同情なら今やった水と握り飯で十分買ってやっただろうが」
蛇口を捻っただけで出てくる水も、手を加えなくとも簡単に手に入る食べ物も、今はもう存在しない。
仮に手に入ったとしても、それはごく僅か。人が増えれば、更に困窮を極めるのが今の現状だった。
この貰った握り飯だって、普通なら滅多に食べられるものではない。
男の言いたいことはよくわかる。
彼女だって今までこの男と一緒に長い道のりを辿り、どうにもならない厳しい現実を嫌でも目にしてきたはずだった。
だからこそ困ったように笑う彼女に申し訳なくて、思わず地面に視線を落とす。
諦めなければ。
そう思うのに、言葉が出ない。
「あなた、名前は?」
また、一人になる。
「……千秋です。千の秋と書いて、ちあき」
一人で、先の見えない道を進んで行く。
「そっか、千秋か」
たとえ、孤独な最期が待ち構えていようとも。
せめて、いつ死ぬかもわからない人間の名前ぐらい聞いておこうと思ったのだろう。
ここで別れることを更に暗示するような問いかけに歯を食いしばった、その瞬間。
「じゃあ名前も知ったことだし、これでもう私達他人じゃなくなりましたね」
彼女のあまりにも軽快な言葉に、思わず耳を疑った。
一瞬何を言っているのか理解出来なくて、「え?」と間抜け面で彼女の顔を見る俺に、男が慌てて彼女の肩を掴む。
「おい、ちゃんと話聞いてたか?駄目だって言ったよな、俺。お前のこの耳は飾りか?なぁ」
「ちゃんと聞いてたからとりあえず名前聞いたんじゃない。 他人じゃなければ信じていいんでしょ?信じたのなら、連れて行っても構わないんじゃない?」
「あぁ?知ってるか?お前のそれは、ただの屁理屈って言うんだ。 連れてってもメリットはない。情や綺麗事だけじゃ生きていけない事を、今まで散々思い知って来ただろーが」
「メリットなんて後々見つければいいでしょ。 本人も何かあれば真っ先に切り捨てていいって言ってるし、そこに転がってる男共よりよっぽど根性あると思うけど?」
「あのなぁ、お前はそもそも危機感ってもんが…」
「これは命令よ、獅子尾」
その一言で、二人の空気が変わったような気がした。
今までの穏やかな声とは打って変わって、静かに、けれど有無を言わせぬような低い一言に、男も俺も息を飲む。
彼女が主人だと言われても、今の今まで本気で信じてはいなかった。どれだけ男が彼女を守ろうとしても、もしかしたら何か別の理由があるのではないか、そもそも焼印がないのなら、本当は主従関係すら結んでいないのではないか。
そんな疑いさえ抱いていたと言うのに、今こうして、強い目で、力強く言葉を紡ぐ彼女にやっと確信する。
「…こんなとこで命令使うか?普通」
「だって一応主人だもの。それとも何?前に約束したこと、もう忘れたの?」
「忘れてねぇから余計驚いてんだろ。まさか大事な機会をこんなとこで……いや、もういい。お前は元から考えなしの無鉄砲だしな、言っても無駄だ」
「勝手にしろ」と。
あれだけ渋っていたのに、呆れたように吐き捨てる男に唖然とする間も無く、「ほんと?」と彼女が無邪気に笑う。
この男が唯一仕える、前代未聞の女主人。
年齢だって大人びては見えるが、よく見積もっても二十歳行くか行かないかぐらいだ。
そんな明らか男よりも年下に見える彼女のたった一言で、この化物みたいな男が彼女の為だけに態度を変え、従い、俺みたいな奴を警戒する。
それが、どれほど恐ろしいことか。
彼女はきっとわかっていない。
「おい」
「は、はい!」
「物凄く不本意だが、ご主人様の"命令"だ。ついてきたきゃ来ればいいし、それに俺はもう文句を言わない。だから自分で選べ」
…何を?
それが問いになる前に、男が徐に俺に背を向けて、首元まで隠れる上着のチャックに手をかける。
連れて行ってほしいと願う俺と、来ればいいと言う男。それで十分な筈だった。
けれど躊躇なく上着を脱ぎ捨てた男の背中をーーー正確には、半袖から剥き出しになった腕を見て、目を見張った。
まるで、地獄のような。
空白を探す方が難しいほど、見える範囲にびっしりと埋まる幾つもの焼印を目の前に、息を飲む。
どれも形様々で、皮膚が爛れ、未水張りのように浮き上がり赤黒く変色するそれらは、腕を隙間なく埋めているだけでなく、首元から手首まで、まるで何かの呪いのように浸食している。
その痛みを想像するだけで気絶してしまいそうな、それほど衝撃的な光景だった。
焼印は、主従関係を結んだ証。
焼印は、目立つ場所に入れることで更に主従関係の拘束と化す。
彼女はさっき、この男に焼印の代わりにピアスを渡したと言っていた。
それなのに。
「…なん、で」
無数の焼印が意味することなど、ただ一つ。
『忠犬どころか、どっからどうみてもただの狂犬ですし』
ふと彼女が言っていた言葉を思い出し、実際に目の前の焼印を見て納得する。
ーーー"これだけ人を殺した人間と、一緒に行けるのか?"
男の背中がそう問いかけているな気がして、やっと、男が言っていた意味を理解した。
不思議な雰囲気を持った女の主人と、焼印塗れの男の従者。
ーーーこれが、のちに世界を変えることになる二人との、初めての出会いだった。
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