溶解(2)
「佐山、俺、水戸先生の所に行くけど一緒に来る?」
帰りの会が終わって、片桐を先に帰し、ランドセルを背負った俺は佐山に声を掛ける。佐山は俺をにらむように見上げていたが、やがてうなずいた。
「行く。ちょっと待って」
「早くしろよ」
佐山はランドセルに教科書とノートを詰め込み始めた。
「ほら、行くよ」
「待たせたのはお前だろ」
2人で職員室に行くと、水戸先生は待ち構えていたように出てきた。
「来てくれてありがとう2人とも。さっそくだけど、図書室に来てほしいの」
先生に先導されて図書室に行くと、まっすぐに貸し出し禁止の棚に連れて行かれた。水戸先生は佐山を見る。
「佐山さん、あなたと安藤さんがその本を見たのはここ?」
「そうです」
佐山は頷いた。
「でも、本棚にはちゃんと入ってなかった。この、本と本棚の上の隙間に」
そう言って、佐山は並んだ本の上にある隙間に手を入れて見せた。なるほど、確かにそこになら1冊くらいは入るかも知れない。
「それで、私とちゆは……安藤さんはそれをちゃんと戻そうとして取って、でもこの整理番号がついてないから」
佐山が差しているのは、背表紙の下の方についてる、番号とかアルファベットとかカタカナとかが書いてあるシールのことだ。
「どこにしまえば良いのかわからなくて、今度委員会の日に先生に聞こうって。それでここに戻したんです。表紙に変なシールも貼ってあったし」
「変なシール?」
「開封禁って。本に開封っておかしくない?」
「そうなのか?」
「そうなのかって、封を開けるって書くんだよ? 本に使う言葉じゃないじゃん」
「本屋さんでビニールが掛かってる本は開封って言ったりもするけど、図書室の本で開封は確かに変だね」
水戸先生も首を傾げている。そう言うものなのか。と言うか開封なんて普段から使わない。2人とも普段から使っているのか。
「タイトルは?」
先生が聞いた。佐山は首を横に振る。
「書いてなかったです。それで、どんな本なんだろうって言ってたんだけど、開封禁だし。私は開ける気がしなくって」
安藤は気になって仕方なかったのかもしれない。それで、佐山がいない当番の日にそれを持ち出した。そして多分、開けてしまった。
「先生、あの本、蔵書目録ではなんて本だったんですか?」
そんな変な本なら、蔵書目録ですぐにわかるだろう。俺は水戸先生を見上げた。先生は俺に聞かれて、一瞬だけ止まった。唇をきゅっと閉じて、勇気を出すような表情になった。
「蔵書目録に、そう言う本は
「え?」
「目録にある貸し出し禁止の本は、全部ここに
俺と佐山は顔を見合わせた。
「とにかく、実物を見ないとどうしようもない。安藤さんにその本を返してもらわないと。本人に来てもらうか、先生が取りに行くかしてとにかく返してもらいます。そんなものをそばに置いても安藤さんのためにならないし……」
先生がそう言ったその時だった。図書室のドアが静かに開く。俺達が一斉に振り返ると、そこにはパジャマにコートを着ただけの安藤が、本を両手に抱えて立っていたのだ。やっぱり、昨日あんなわけのわからないものを吐いてしまったのだから、休むに決まっている。
「せんせい……」
「安藤さん!」
水戸先生は叫ぶと、テーブルの間を通って安藤に駆け寄った。
「そんなかっこうして! 大丈夫なの?」
「先生ごめんなさい……私……」
「もう良いから。ね? さ、これを返して」
「だめ。これ、手を離すと…」
安藤はそう言って、きつく閉じていた本を持つ手を緩めた。その瞬間だった。ページの隙間という隙間から、黒いものがぼろぼろとあふれ出す。
それが文字であると、俺はすぐにわかった。安藤が咳をする。表紙の上に文字が落ちた。
「わ、私が、持ち出しと開封、どっちも破ったから……」
「だから持って帰るなって言ったのに……」
佐山が泣き出しそうな声で言う。「どうすんの、どうしたら治るの?」
「神社に行きましょう」
水戸先生が言った。
「すぐそこの神社。お祭りで行ったことあるでしょう? あそこに行きましょう。もしかしたらお祓いとかしてもらえるかもしれない。安藤さん、その本離さないで。2人は帰りなさい」
「嫌です! 私も行く!」
佐山は水戸先生の腕を掴んだ。
「私も連れてって! 高見沢くんも来るでしょ!?」
俺は迷った。関わるなと言った母さんの顔が思い出されたからだ。自業自得だと言って話を終わらせた母さんの顔が。何時に帰れるだろう。でも、ここまで来たら俺は安藤を見捨てることができなかった。
「うん」
俺は頷いた。
「行くよ」
「だめです。2人とも帰りなさい」
水戸先生は首を横に振った。
「嫌だ!」
佐山は泣き出した。
「帰りなさい! 泣いたってだめです! うつるものだったらどうするの!」
初めて、水戸先生が怒鳴るのを聞いた。佐山はぎゅっと縮こまりながらも、先生の腕を放さない。
「うつるって……」
だとしたら、佐山にはとっくにうつってるんじゃないのか。昨日安藤が文字を吐いたときに、そばにいたんだから。もちろん俺にも。でも、俺にはそれくらいじゃうつらない確信があった。母さんは文字がこぼれる本を見ても、どうにもならなかった。多分開けなきゃ大丈夫だ。
「先生……だったらもう遅いよ……」
「それでも、だめです! 帰りなさい! おうちに電話しますよ!」
俺はそれでうろたえた。母さんに知られるのだけは避けたいからだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい優花ちゃん……先生……」
「謝るのは後。先生と神社に行きましょう」
先生はそう言うと、安藤から本を取り上げようとした。安藤は離さない。水戸先生が自分と同じようになるのが怖いのだ。
「安藤さん、先生に貸して。開かないから大丈夫」
「だ、だめ……先生にもうつっちゃう…」
「開けなきゃ大丈夫だと思う」
俺が口を挟むと、安藤は俺が怪物か何かであるかの様な目つきでこちらを見た。この本に関わる全ての人間が恐ろしくて仕方ないみたいだ。
「開かなきゃ大丈夫だ。それを見ただけの人を知ってる。その人は今も別に文字を吐いたりしない。結婚して子どもまでいる。だから大丈夫だ」
「それって……」
水戸先生はそれが誰のことを指しているのかわかったようだ。でもそれ以上何も言ってこなかった。お母さんのことでしょう。そう言われると思ったけど、先生は何も言わない。
「そう。じゃあ大丈夫ね。行きましょう。でも2人は帰って」
「先生、お願い、連れて行って。一緒にいた私にも責任が」
「ありません。こんな本だなんて、子どものあなたたちにわかるはずがない。先生だって想像しません。だからこれは事故なの」
先生はきっぱりと言い切ると、佐山の手を自分の腕から外した。佐山は顔を覆って泣き出した。
「ちゆ、ごめんね……」
安藤は答えない。そんな元気もないようだ。目からぽろぽろと漢字が落ちていく。先生は安藤から本を取り上げると、胸に抱えて、安藤と図書室を出て行った。
「どうしよう……」
「どうするんだよ」
このまま帰っても落ち着かない。
「追い掛けるか?」
「でも……帰れって言われたし」
「じゃあ帰るのかよ」
「追い掛ける……」
佐山は顔を袖で拭くと立ち上がった。
「追い掛けなきゃ……高見沢くんは?」
「俺も行くよ」
ここまで来て帰ります、とは言えなかった。
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