溶解(1)

 めちゃくちゃ疲れた。家に帰った俺は、手洗いとうがいを済ませると、冷蔵庫の麦茶をがぶ飲みして一息吐く。安藤のことが心配でないわけではないが、それ以上に、文字を吐くってどういうことだ。その疑問が頭の中をぐるぐると回っている。安藤が持ち出したかも知れない本は水戸先生が探してくれているが、あったんだろうか。持ち出し禁止の棚の本はぎっしり詰まっていて、もう一冊本が入りそうな隙間はなかった。

 実在する本なんだろうか。そんな疑問が俺の心に浮かぶ。いや何を馬鹿な……実在しない本なんて持って帰れるわけがない。ないんだから。

「ただいま」

 俺がぼんやりしていると、母さんが帰ってきた。「寒いね。今ご飯用意するね」

「うん」

 ご飯くらい炊いておけば良かったかな。父さんは電車で結構遠くまで行ってるから帰ってくるのは母さんほど早くない。夕飯を作るのはいつも母さんだ。

「あのさぁ、母さん」

「何?」

「図書室とかで変な本って見たことある?」

「何て?」

 母さんは振り返った。今朝の佐山くらいの怖い顔だった。

「変な本って、どういうこと?」

「見たこともないような本」

「そんな本見たの?」

「俺は見てない」

 俺は見てない。ラッキーなことに、文字のゲロを吐くような本は見てない。でも、そう言うものがあることは知っている。

「俺は見てないけど、4年生の子が変な本を見て具合が悪くなったって」

「図書室に行ったの?」

「片桐に付き合って」

「借りてないでしょうね」

「そこで読んで帰ってきたよ」

 怖い。何だろう。何だか変な感じだ。俺の知らないところで何かがあるような、そんな変な怖さを感じる。

「母さん」

 閃いて、それを聞いていいのかどうか考えるよりも先に、俺は母さんに聞いていた。

「母さん、図書室で文字を吐く本とか知ってる?」

 母さんはうちの小学校の卒業生だ。30年前に卒業した。30年がどれくらい昔なのか。30年前の本って残っているものなのか。もし母さんが見たなら、30年間放って置かれたのか。

「冬也!」

 母さんが叫んだ。俺の両肩に手が掛かる。

「見たのね! あれを! あんたも見たのね!」

 すごい剣幕だ。怒鳴ると言うよりも、悲鳴に近い。

「俺は見てないよ! 俺じゃない! 図書委員してる4年生の女子だよ!」

 俺の肩を掴んで揺さぶる母さんに、そう叫んで答えると、母さんは怖がってるような顔をした。俺が風邪で吐いたときもこんな顔をした。俺が死ぬんじゃないかって怖がってる顔だ。風邪から悪い病気になることがあるからって。

「それで」

 俺はようやく、母さんが図書室の本を毛嫌いしている理由がわかった。

「それでかよ。母さんその本に俺が出会わないように、借りてくるなって言ってたのかよ」

「授業でどうしても図書室には行く……委員会なんて押しつけ合いだから、図書室に行くなって言うのは無理だからせめて借りてこないようにって……」

 母さんは認めた。知ってるんだ、あの本を。

「どこで?」

「お母さんね、図書委員だったの。6年生の時。当番で、時間になったから帰ろうとして、出しっ放しの本がないか確認してたらその本があって……」

 母さんは大きなため息を吐いた。

「テーブルの上で、文庫よりちょっと大きいくらいの、日記帳くらいの本だったけど、紙の間からすごい勢いで文字がぼろぼろこぼれてた。びっくりして職員室に行って先生を連れてきたけど、戻ってきた時にはもうなくって」

「具合は大丈夫だった?」

「私には何もなかった」

 首を横に振る。多分、持ち出さなかったから、触らなかったから、母さんは無事だったのだ。

皆川みながわさんの見間違いでしょうって。疲れてるからゆっくりして、明日は休んでもいいよ。その先生はすごく優しかったからそう言ってくれて……すごく怖かったけどその本のことは忘れようと思った。でも、怖くてもう図書室の本は読めなかった。こっそり家から買って貰った文庫本を持って行ってた」

 皆川。母さんの旧姓きゅうせいだ。結婚する前の苗字。

「母さん、図書委員の子が、文字を吐いたんだ。どうもその本を持って帰ったらしい。何か心あたりない?」

「ごめんね冬也。私はそれっきりだったからもうわからない。でも、その子には絶対関わらないで。今の話も、誰にも言わないで。あんたまでそんなことになったら、お母さんどうしていいかわからない」

「でも……」

自業自得じごうじとく

 母さんはそれだけ言った。俺から手を離すと、台所に行ってエプロンを着ける。俺はびっくりしすぎて、それ以上口が利けなかった。母さんの背中は、この話はもうおしまいだと言っていて、俺がその話を続けることはできなかった。


 自業自得。確かにそうだ。安藤は持ち出し禁止の本を持ち出した。しかも、佐山も気にしていたのに抜け駆けをして。でも、だからってあんな恐ろしい状態になって放っておけるものではない。

 どうにかならないのか。でも、まずはその本がなんなのかを見ないとどうしようもない。でもその本を見たら安藤みたいになる。そうすると母さんに怒られるし母さんが悲しむ。どうしたらいいのだろか。しかし母さんの話を聞く限りだと、触らなければいいような気もする。


 次の日。考えながら歩いていたせいか、俺はいつもより少し学校に行くのに時間がかかった。ちょっとぎりぎりの時間に教室に入った俺は、落ち着かない様子の片桐を見付ける。

「おはよう」

「あー! 来た! おはよう。来ないから心配してたんだよ」

「ちょっと考え事しててな」

 俺は佐山の席を見た。彼女は浮かない顔でこちらを見ている。話したいことがありそうだが、もうすぐ朝の会が始まる。

「昨日、あの後どうした?」

 すぐに水戸先生と図書室に行ってしまったから、結局安藤がどうなったのかはわからない。片桐は少し考えてから、

「えーっと、立川先生がお母さんの勤めてるところに電話して迎えに来てもらうって。電話してたから多分お母さんが迎えに来たんじゃないかなぁ」

「佐山は?」

 俺は少し小さな声で聞いた。

「えっ、佐山ぁ?」

 声がでかい。佐山が、俺の視界のすみっこでがばっと顔を上げる。片桐が振り返った。

「佐山ぁ、お前昨日あの後どうしたー?」

「帰ったけど……」

「先生なんか言ってた?」

 片桐に便乗して俺も質問する。佐山は首を横に振った。

「何も。それより、高見沢くんは図書室で何かわかったの?」

「水戸先生がお前に話聞きたいって言ってたよ。そこで教えてもらえると思う」

「あっそ」

 相当イライラしているらしい。だからって俺達に当たられても困るんだけど。やがて青井先生が来た。出席を取って、朝読書になる。俺は文庫本を取り出して……文字が落ちてこないかとこっそり振って、何もないことを確認してから本を読み始めた。

 だけど、本の内容はまったく頭に入ってこない。安藤が見た本は、俺が今読んでいる本と何がどう違うんだ。文字が溢れてくる本。本だけでなく、見た人間からも文字を溢れさせる本。薬で治るんだろうか。

 考え事をしながら本をめくっていた俺は……誰かのくしゃみの音と同時に、目の前の文字が落ちたような、そんな錯覚をしてしまって、頭をぶるぶると振った。もう一度見ても、文字は落ちていない。

 だめだ。放っておけるはずがない。頭がおかしくなりそうだ。結局、1文字も進まなかった。チャイムがなると、青井先生がそっと俺の所に寄ってきた。

「読書に集中できてなかったようですが、昨日は大変だったそうですね」

「あ、はい……びっくりしちゃって……」

 俺がもごもごと言い訳をしていると、青井先生は優しく微笑んだ。

「大丈夫ですよ。そう言う日もありますからね。それと、水戸先生が君に教えないといけないことがあるって言ってましたよ。放課後に職員室に来てほしいって」

「あ、はい。わかりました」

 蔵書目録で何かわかったんだろうか。授業が終わったら職員室にダッシュしよう。俺はそう心に決めて、うなずいた。

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