異変(2)

「安藤さん、昨日も片桐くんに当番代わって貰ったんでしょ?」

 授業が終って、再びコート、マフラー、手袋、帽子…冬の寒さに完全防御の構えをとった俺が階段を降りて行くと、水戸みと先生の声がした。水戸先生は、確か今は5年生の先生だった気がする。図書委員の先生でもあった筈だ。水戸先生の言葉から、今朝片桐から聞いた話を思い出す。確か4年生の安藤と言う女子が図書委員の当番を代わってほしいと頼んだとか。今日も誰かに頼んだのだろうか。2日続けて?

 そっと顔を出すと、俯いた女子の顔を覗き込むように水戸先生がしゃがんでいる。あれが安藤らしい。背は157センチの俺よりは低い。髪の毛はちょっと茶色っぽくて、二つ結びにしていた。ちょっと見た感じだと結構可愛い。

「どうしちゃったの? いつも熱心に当番してたよね?」

「先生……ごめんなさい……私図書委員やめたいです……」

 委員会ってやめられるのか? 案の定、水戸先生も戸惑ったようだ。

「委員会はやめられません。引き受けたんなら、最後まで責任持ってやらないと…」

「怖いの」

「何が?」

「本が」

「怖い本を読んでしまったの? 誰かに読むように言われたの?」

 安藤の言うことがさっぱりわからなくて、どういうことか知りたくて、俺は思わず身を乗り出した。いざとなったら片桐の友達ですとかなんとか言っておけば良いだろう。

「違う……」

「じゃあなんなの?何かあったなら話してくれないと……」

 水戸先生が困った様に言うと、安藤は明らかに怖がっている顔をした。水戸先生がめちゃくちゃ怖いとかそう言う話は聞かない。むしろうちの担任の青井先生の方が「本気で怒るとしゃべれないくらい怖い」とかそう言う噂を聞く。幸いなことに、俺はそこまで怒られたことがない。階段を4段飛び降りて転んだときはちょっと怒られた。

「図書室入ろうか? 中で聞く?」

「いや!」

 先生の提案を、安藤は声を張り上げて拒否した。

「いやだ、職員室がいい」

 水戸先生は本当に困ったようだ。どうするんだろう。俺が息を殺して見守っていると、後ろからランドセルごと突き飛ばされた。

高見沢たかみざわぁ! 帰ったんじゃなかったのかよぉ!」

 満面の笑みを浮かべた片桐だった。

「俺のこと待っててくれたのぉ?」

「ち、違ぇよ!」

「あ、片桐くん」

 俺達の声に、水戸先生が振り返った。盗み聞きしていたのはバレただろうか。俺がちょっと身構えていると、先生は安藤さんの手を引いて片桐に言った。

「今日、時間大丈夫かな?安藤さんと話したいんだけど、その間当番する人がいなくって……ちょっと代わってくれないかな?」

「いいっすよぉ! もともと今日俺当番だし!あれ、でも細谷ほそやは?」

「細谷くんはねぇ、風邪でおやすみ」

「はーい! なあ、高見沢も図書委員やってけよぉ。先生、いい?」

「うーん、じゃあ今回だけ特別です。普段委員じゃない人はカウンター入ったら駄目ですよ」

「はぁい」

 片桐は頷くと、俺の返事も待たずに先生から鍵を受け取って俺を図書室に引きずり込んだ。うなだれた安藤が、水戸先生に気遣われながら階段を降りて行く。盗み聞きはバレなかったが、これはこれで面倒だ。

「先生も良いって言ったし、カウンター入っていいぜぇ」

「入らねぇよ」

 本は嫌いではないが、母さんが図書館の本を嫌っているので、俺もあんまり図書室に良いイメージがない。そこでふと思いついて、片桐に聞いてみる。

「なあ、安藤って本が嫌いなのか?」

「え? そんなことないよぉ。佐山さんと一緒で本が好きで図書委員になったって感じ。すごくたくさん本読んでて、佐山さんともよく本の話してる。貸し借りもしてるみたいだよぉ」

「へぇ……」

 てっきり本が嫌になって図書委員の仕事をサボろうとしたのかと思ったが、そうでもないらしい。本が好きでも、母さんの様に図書室の本が嫌、と言うこともあるかもしれないが、それにしても「怖い」と言うことはないだろう。ばい菌が怖いのか? 母さんも、この小学校の卒業生だけど、もしかしてその時に嫌なことがあったのだろうか。

「よく当番のついでに自分でも本借りてるんだよぉ、安藤さん」

「そうか」

 それじゃあ別に不潔だ、と言うこともないのか。何がそんなに怖いんだろう。

「怖い本ってあるか?」

「ホラーのこと?あるよ。そこの棚」

「そこってどこだ」

「『水族館ゾンビ』があるところ」

 なんだその本は。ちょっと興味が湧いたが、今俺には読んでいる本がある。俺はその周辺の本をざっと眺めてみた。「水族館ゾンビに御用心」「ヤモリ様」「黄金伯爵の秘密」……ホラー小説が並んでいるが、委員会の当番を嫌がるほど怖い本だとは思えない。試しに「ヤモリ様」を棚から抜いてみた。表紙は薄暗い、江戸時代っぽい昔の家を暗くしたような写真だ。

「怖いなぁ」

「借りてく?」

「母さんが嫌がるからいい」

「ランドセルに入れときゃ良いじゃん」

「それもそうだな」

 母さんが嫌がるものをこっそり持って帰るのも気が引けたが、明日返してしまえばいいだろう。俺は片桐に貸し出しの手続きをしてもらった。

「これ、怖い?」

 片桐は読んだことがあるのだろうか。何気なくそう聞くと、読んだことはあったらしい。ちょっと考えてから答えてくれた。

「うーん、自分がそうなったら怖いって感じ」

「なんだそれ」

「読めばわかる。俺もよくわからない」

 6年3組、高見沢冬也とうや。貸し出しカードに名前を書くと、片桐がそれを「貸し出し中」の棚に入れた。安藤と水戸先生はまだ戻ってこない。

「今日もこのまま当番かなぁ。漢字ドリルやっちゃおう。高見沢もやろうぜ」

「俺は帰ってからでもちゃんとやるからいいんだよ」

 ヤモリ様を読んでみることにした。やっぱり、これを持って帰るのはちょっとだけ気が引ける。適当な席に座って、俺は本を開いた。どうやら短編集らしい。最初の1話を読み終えて、俺は片桐が言った言葉を理解した。自分がそうなったら怖い……確かに怖い。今読んでる野球部の小説は、俺もできるならこういうかっこいいことをしたい、と言う憧れのようなものを感じさせるが、ホラーはなんかこう、できれば起こってほしくない。起きたらどうしよう。そんな感じだ。もし家に帰れなくなったら………。

「返すわ……」

「おう」

 片桐はさっきしまった貸し出しカードを出して、返却の手続きをしてくれた。俺は元の場所に本を返した。

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