異変(1)

 雪でも降りそうなくらい寒い12月のことだった。12月に東京で雪が降ることはまずない。数年前の11月に、風邪でもひいたかのように一度雪が降ったが、それっきりだ。今日も凍えそうなくらいで、俺はニット帽とマフラー、手袋、コートの完全武装で学校に向かっている。夏は背中にびっしょりと汗をかかせるランドセルも、こう寒いとあんまり役には立たなかった。ちょっと風よけになるかな、くらいのものだ。

 いつも通りの時間に学校に到着した俺は教室に向かう。6年3組の教室。あと数ヶ月でこの教室に来なくなると言うのが信じられない。でも、中学受験をする何人かのクラスメイトは、先生が来るまでの時間も惜しいと言わんばかりに机にかじりついて俺が知らないテキストの問題を解いている。その焦りが強くなるのを感じると、卒業が近いんだと思ってしまう。俺は公立中学にそのまま行くから特に何もしていない。算数が数学になる、と言うのがちょっと不安なくらいだ。

「おはよ」

 俺はランドセルを置いて、前の席の片桐かたぎりに声を掛ける。片桐は振り返ると笑顔で同じ言葉を返した。

「おはよ。算数のドリルやった?」

「やった」

「俺やってないんだよな。今から答え写して間に合うと思う?」

「知らねぇよ。聞いてる暇あるなら写せよ」

 俺が苦笑いしながら言うと、片桐は「そうする」と言いながら俺の机にドリルを広げた。ドリルの後ろに糊でくっついている答えの本を、俺も片桐も外していない。

「自分の席でやれよ」

「喋りながらやる」

 進むのかよ。でも、答えを写すだけだからまあ良いか。俺が机の中の道具箱に今日使う教科書とノートを入れていると、片桐は喋り出した。

「昨日図書委員で4年生の子と当番代わってさぁ」

「何で?」

「よくわかんない。お願いだから代わってほしいって言われてさぁ。まあいいやと思って代わった」

 片桐が脳天気なのは今に始まったことではない。こう言う性格だから、みんなドリルを見せろと言われてもあんまり嫌な気がしないのだ。めったな事では怒らないから。だから、男子が誰もやりたがらなかった図書委員を押しつけられても、はいはいと言って引き受けたのだ。

「ふうん。それでドリルできませんでしたって言っとけば?」

「そしたらその子のせいになるじゃん」

「お前、優しいよな」

「そお?」

 プロかよ。そう言いたくなるくらい、片桐はすらすらとドリルの答えを写していく。慣れてるんだなぁ。慣れるくらい忘れるんだなぁ。

「あ、そうそう。その子、4年の安藤あんどうさんって子なんだけどぉ、図書室が怖いって言ってたなぁ」

「図書室が怖い? なんで? 七不思議かよ」

「うちの学校七不思議あんのぉ?」

「知らね」

 よくある怖い話だと、どの学校にも七不思議が絶対にあることになっているが、うちの学校にはない。俺は知らない。片桐も知らない。聞いたこともない。

「お前怖かったの?」

「全然」

 片桐はあっさりと答えた。「なんもなかった。俺ずっとだらだらしてたけど…あ、今度から当番の時に宿題やろうかなぁ」

「おはようございます」

 出席簿を持って、担任の青井あおい先生が入ってきた。教卓に出席簿を置いて開く。

「よーし、じゃあ出席取って朝読書始めますよ。はい片桐くん前向いて」

「はぁい」

 片桐がドリルを持ってくるりと前を向く。全員が本を取り出した。朝の会の時間を使って、毎朝10分の読書時間がある。成績が上がるとかなんか効果があるらしいが俺は実感していない。本が好きな奴は喜んで色んな本を持ってくるし、そうでないやつは図書室とか図書館から適当に借りた本を持ってくる。漫画はアウトだ。

 俺は好きでも嫌いでもない。ただ、俺の母さんは図書館とか図書室の本を不潔ふけつだからと言って嫌っていて、俺には常に新品の本を買ってくれた。たとえば俺が、このクラスで立候補して図書委員になった佐山さやまくらい本が好きだったら、ものすごくたくさん本を買わないといけなかったかもしれない。そうしたらどうしたんだろうと思わなくもないが、実際に違うので確かめようがない。

 出席を取り終えて、先生が今日の予定を読み上げると読書時間になる。俺は本を開いた。この前読んだところまでは栞が挟んである。文庫本に最初から挟まっているあれだ。

真野まのさん、今その問題集はしまってください」

「はい………」

 真野に限らず、受験組は読書なんてしている場合じゃないのだろう。受験は1月か2月にある。実際、誰かの親が朝読書をやめてくれるように頼んだらしいが、朝読書はなくならなかった。

 紙をめくる音だけになった。俺はそれなりに10分間だけ読書を楽しんだ。

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