パン屋のバイト

 佐藤は、無意識にパンをこねながら、関係のないことばかり考えていた。中学生のころの友人――望のこと。放課後に遊んだ記憶が頭から離れない。目の前の作業に集中しようと何度も試みるが、ダメだった。


 当時、流行っていたカードゲームで、毎日のように勝負をした日々。望はカードゲームが得意だったから、お決まりのように毎回、佐藤が負けていた。負けず嫌いだった佐藤は、いつも「今日も、負けてやった」などと強がりを言っていた。遠い昔の記憶のように、ゆらゆらと頭に浮かぶ。


 中学を卒業してからは、望と会うことはなかった。別々の高校に進学が決まったときには、高校生になってからもときどき会おうと約束していたものの、その約束は果たされることがなかった。結局、ときどきラインでやり取りするくらいの関係になり、そのまま、互いに違う大学に進学した。


 大学生になると、それぞれの大学生活にのめりこんだせいなのか、ラインでのやり取りさえも減っていった。嫌いになったわけじゃなかった。会えるときにまた会おうと思っていたし、もっと言えば、いつでも会えるものだと思っていた。


 パンをこねつづける指が、痛み出した。佐藤は、顔をしかめて、痛みを我慢した。


 そんな考えが甘えた思い込みだったことに気づいたのは、先月のことだ。望が交通事故で死んだ。そんなニュースが入ってきた。頭が真っ白になった。意味がわからなかった。これから何度だって会えるはずだと思っていた。だからこそ、わざわざ会おうとはしなかった。


 死んだ? どこの世界の言葉だよ?


 指が痛い。痛くて、たまらない。それでも、パンをこねつづけている。生活をしていかなくちゃいけないから。こんな、当たり前のことを、望は、もうできなくなった。


 乗車していたバスがトラックと正面衝突して、望の身体は10メートル以上も飛んだらしい。即死だった、と聞いたときは、どうにか納得しようとした。でも、無理だった。


 望のことばかり考えていると、ちりん、と鈴が鳴った。客が来たらしい。佐藤は、パンをこねるのをやめ、レジへと向かった。そこに、制服姿の男がパンを手に立っていた。バスの運転手だろうか?


「これ、ください」


 佐藤は、お金を受けとり、お釣りを出した。パンを手にした制服姿の男は、「ありがとうございました」と珍しく声を上げて、笑顔で去っていった。


 あの人、一日中、バスを運転してきたのだろうか。佐藤は、ぼんやりと考えだした。もしそうなら、事故を起こさないように注意しながら一日を終えただけで、すごいことを成し遂げたんだ。


 佐藤は、身を引き締めなければいけないと思った。自分がつくったパンで、ほんのひとときの幸せを提供できるかもしれない。毒が入ったものとか、まずいものを提供するわけじゃない。ちょっと美味しいもの。それだけで十分だ。生きているうちにもらえる幸せなんて、そんなもんだろう?


 佐藤は、ふっと息を吐いた。両手の指を揉んで、頬を持ち上げる。さて、残りの仕事を終わらせてしまおう。頭の片隅には、ふと、しんせきのおじさんの顔が浮かんだ。彼はよく、「貯金してあるお金は、他人に与えた喜びの総量だ」と語っていた。

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