お客様がふたたび……

 これはわたくしが都内の小さなビジネスホテルに勤めておりましたときの出来事でございます。ある冬の夜でした。わたくしがフロント奥の事務室で待機しておりますと、ひとりのお客様が訪ねてくださいました。


「予約はしていないが、空いている部屋はないですか」と。おそらくサラリーマンなのでしょう、くだびれたスーツを身に着けた中年太りの二重顎のお客様でした。わたくしはお部屋の空室状況をチェックいたしまして、「はい、シングルルームがご用意できます」と返答いたしました。


 お客様は空室があると知るやいなや、安堵したように息を吐いて、「どのホテルに行っても満室でしたので、困り果てていたのですよ」とおっしゃいました。笑顔も確認できました。こういうとき、フロント業務のやりがいを感じることができます。


 わたくしは、お客様との宿泊契約の手続きを手早く済ませますと、宿泊されるお部屋のカードキーをお客様にお渡しいたしました。「どうもね」と優しいお声かけもしていただけました。


 そこまではよかったのでございますが……。中年太りのお客様の来訪をきっかけにして、非現実的な体験が始まりました。


 中年太りのお客様にカードキーを渡してから10分と経たないころでございました。ふたたび、ひとりのお客様がフロントに訪ねてくださったのですが、そのお客様はどう見ても、さっきの中年太りのお客様と同じ見た目でございました。しかし、エレベーターに乗ってフロントのあるロビーに降りてきたわけではなく、玄関の自動ドアから入館されました。


「予約はしていないが、空いている部屋はないですか」と尋ねられました。わたくしは内心の動揺が著しかったのですが、似ているだけだろうと思い直し、空室状況をチェックいたしました。「はい、シングルルームがご用意できます」と答えました。


 すると、お客様は、安堵したように息を吐いて、「どのホテルに行っても満室でしたので、困り果てていたのですよ」とおっしゃいました。同じセリフでございました。わたくしがカードキーをお渡しすると、「どうもね」とお声かけをしていただけました。


 そこで終わりではなかったのでございます。そのあと、同じことが続いて起こりました。まったく同じ見た目のお客様が「予約はしていないが、空いている部屋はないですか」と訪ねてきまして、シングルルームがある旨を伝えますと、「どのホテルに行っても満室でしたので、困り果てていたのですよ」と笑顔を見せ、カードキーをお渡ししますと、「どうもね」と声をかけてくださるのでした。


 そのうち、シングルルームが埋まり、ツインルームをご紹介することになりました。すると、セリフがちょっと変化しました。「お金がもったいないけど、まあ、よしとしましょう」に。ついには、ツインルームも埋まりまして、満室となりました。


 それからもまた同じ人がやってきまして、「予約はしていないが、空いている部屋はないですか」とお尋ねになりました。わたくしは、そのとき背筋の凍るような思いがいたしました。お客様が右手にナイフを持っていたのでございます。


 わたくしは、「シングルルームがご用意できます」と嘘を吐き、事務所に戻る振りをして、ホテルを逃げ出しました。すぐに戻ったのですが……。


 ホテルに戻って宿泊契約を確認いたしますと、わたくしが中年太りのお客様に売ったはずのお部屋はすべて空室のままでございました。わたくしはいったい、なにをしていたのでしょうか。とにかく、恐ろしい体験でございました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る