誰もいないはずなのに……
これは地方のビジネスホテルに勤務しておりましたときの、少しだけ気味の悪い思いをした出来事でございます。わたくしは、ナイトフロントでありました。真夜中はずっと、フロントか、フロントの奥の事務所か、どちらかで仕事をしておりました。蒸し暑い夏の夜のことでありました。
その日、真夜中の1時ごろにフロントの電話が鳴りました。すぐに出ましたが、反応がありませんでした。ホテル内から電話がありますと、フロントにあるパソコンのに表示された部屋暗号が点灯いたしますが、そのときもそうでした。いまでも覚えています。304号室でございました。「お客様?」とお聞きしましたが、無反応でございました。人の気配が一切しませんでした。
何度かお問いかけをいたしましたが、いっこうに反応がございませんでした。
気味が悪いな、というのが正直なところでございました。いたずら電話のつもりなのか。わたくしは、「また、用件がありますときに、お電話願います」と言い伝えて、こちらから電話を切りました。
夜のホテルにひとりでいるというのは、それだけで、気味の悪いものでございます。とくにそのビジネスホテルは駅近ではなく、最寄り駅からずっと離れた山のふもとにございましたので、余計でした。気味の悪い電話がありましてからは、より、いっそうでございました。
わたくしは、できるだけ電話のことを考えないようにしようと思ったのでございますが、そこでふと、この対応でいいのかと思い直しました。ひょっとしたら、電話をかけたきり、お部屋でお客様が倒れていらっしゃるかもしれません。そんな可能性が頭を過ぎったのでございます。
わたくしは、念のため、電話のあったお部屋に泊まられているお客様の情報を検索しました。そこで、気が付きました。電話のあったお部屋、その日は、お客様が誰も、泊まられていなかったのでございます。
肌寒い思いになりました。誰もいないはずのお部屋から電話がかかってきたのですから。当然、フロントとしてやるべきことは、そのお部屋へ確認に行くことでございました。わたくしはなんとか勇気を振り絞り、エレベーターで304号室へと向かいました。
ノックいたしましたが、無反応でした。マスターキーを用いまして、ドアを解錠いたしました。恐るおそるでございましたが、なんとかお部屋の中を確認いたしました。誰もございませんでした。
そのときに体験したことは以上ですが、実は、後日談がございます。
またべつの日に、同僚のナイトフロントの女性が、似たような体験をしたのです。304号室から無言の電話があり、304号室に行ったが誰もいなかった、という体験でございます。しかし、少しだけ、わたくしの体験とは違いました。
その同僚の女性が、お部屋の中を確認している最中のことでした。突然、室内の電話が鳴ったと言います。出ますと、「はい、フロントです」と、わたくしの声が出たらしいのです。そのとき、わたくしは、フロントにおりませんでしたし、わたくし自身、その日に304号室に電話をした記憶はございません。
同僚の女性が困惑したまま無言でおりますと、「お客様?」とわたくしの声が何度も聞いたらしいのです。しまいには、「また、用件がありますときに、お電話願います」と切られてしまったそうです。
まるで、時空が歪んで、電話を介して、わたくしとその同僚の女性がつながったかかのような気味の悪い出来事でございました。
そのビジネスホテルは、その後、数か月のうちに経営不振で潰れてしまいました。もはや304号室は存在しません。毎年、そのときの同僚の女性から年賀状が届くのですが、そのたびに、わたくしは304号室のことを思い出してしまいます。
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