ジョークの感覚がちょっとズレてる
A氏と出会ったのは、たまたまでした。わたし、週末はいろいろなところに釣りをしに行くんですが、真夏日のある日、釣り仲間の間で人気のある海岸沿いに行ったときに、A氏を見かけたんです。釣竿を手にしていました。そのとき、わたしはひとりで、A氏もひとりでした。
声をかけるのも迷惑かなと思ったのですが、せっかくのご縁でしょう。日本を代表するようなビジネスの才能と、ちょっとだけお話しをしたくなったのです。わたしは、海岸ぎわのコンクリートに尻をついたA氏に「こんにちは」を声をかけました。
「A氏さんですよね。釣りがお好きなんですか」
A氏は人懐っこい顔で振りかえると、「ええ、最近のマイブームなんですよ」と応じてくれました。メディアを通して見ると、もうちょっと偏屈な印象だったのですが、実際にはそれほどじゃありませんでした。わたしたちは釣竿を並べて、釣りの話題に興じました。
「釣りを始められたきっかけはなんですか」とお聞きしたときでした。誰かにオススメされたとか答えるのかと思いきや、A氏は考え込むように黙り込んで、白波を静かに見つめはじめた。波の音がわたしたちの沈黙をより深刻に演出しました。しばらくして、A氏は、「実は」と口を開きました。
「もともと釣りにも海にも興味はなかったのですが、ある噂話を聞いてから、興味が湧くようになりました。その噂話というのが、次のような話です」
そのときA氏がされた話はなんとも奇っ怪でした。
「ある日のことです。ひとりの釣り人が海へと釣りに出かけて、海岸に腰を据え、釣糸を海面に垂らしていました。なにも釣れず、場所を移動しようかと考えていたときでした。突然、ぐいぐいっと竿が引っ張られました。かかったか、と思い、釣り糸を巻きはじめました。強く抵抗がありましたが、力を込めて釣り糸を巻きつづけると、ついに、獲物が浮上しました。
それは、人間の右手首でした。釣り針が右手首に巻き付いていたのです。
おったまげた釣り人でしたが、微かな違和感を覚えていました。その右手首は死んでいるはずなのに、どうして、釣り糸を巻き上げるときに抵抗があったのだろうか、と。もしかして、その右手首は生きているのではないか。
怖くなった釣り人は、釣り糸を切断し、吊り上げられた右手首を海面の底に沈めました。そのような噂話を偶然に耳にしたのです」
A氏は、その噂話を物語ったことで余計にテンションが高まったようでした。
「その噂話を聞いて以来、わたしも、生きた右手首を釣ってみたいな、と思いました。それで、釣りを始めたのです。噂によれば、右手首が釣れたのはこのへんだと聞きまして」
意気揚々と語るA氏を前に、わたしは、なにも言えませんでした。全身が寒くなる思いでした。わたしが、へえ、ああ、などと感嘆詞だけをむやみに口にしていると、A氏は「いまのはジョークです。ごめんなさい」と笑いました。
ジョークの感覚がちょっとズレてるなとわたしは感じましたね。だって、ふつう、ジョークとして怖がらせるなら、わざと怖そうな顔をしたり、わざと深刻そうな声を出すものでしょう? A氏は始終、子供のように楽しく話されていましたから……。
なんだか、まるで、気味の悪いジョークをつくるのを楽しんでいるような印象を受けました。非常に悪趣味だと感じます。
A氏の悪い噂 山本清流 @whattimeisitnow
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。A氏の悪い噂の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます