小指のキーホルダーなんて、誰が笑うよ?
ビジネス誌を読むのは楽しい。読んでるだけで、有能なビジネスマンになったような気にさせてくれる。ビジネス誌を読んでいたおかげで、俺は、はじめて喫煙所でA氏を見かけたときから、その存在に気づいていた。
道路脇にある喫煙所だった。違和感がありまくりだったよ。有名な実業家ともあろう方が、どうして、狭苦しい都会の隅の喫煙所で吸ってんのよ、って。
俺とA氏の二人しかいなかったから、「A氏ですか」って声をかけてみた。「ああ、はい」っていう、ストレートな反応だった。迷惑そうでもなかったから、続けて、「このへんにはよく来られるんですか? てっきり、中心街のビルに籠っている印象だったんですが」と聞いてみた。
A氏はさっと目を逸らし、すうっと煙草を吸いこんだ。ひょっとして、迂闊な質問だったかと思い直し、「いや、失礼だったら……」と辞退しようとしたら、A氏が突然、「いいんです。それより、このへんで物騒な事件があるようですね」と話題を振ってきた。
ふっと安堵した俺だが、同時に、その話題には背筋がぞくりとしたね。ああ、知ってた。その地域で当時、物騒なんて言葉じゃ片付けられないくらいに、そりゃ、恐ろしい事件が続いていた。今じゃあ、すっかり時の流れとともに薄らいでしまったけど。
それは小指事件と呼ばれていた。二十代の女性が立て続けに通り魔的犯行によって殺害される事件だ。犯人は不明のままだった。今も不明だ。殺害された女性はどれも小指を欠損した状態で見つかった。犯人が切り落として、盗んでいったものと考えられていた。
「まったく、気味の悪い事件だ」と口にしたA氏。それには心の底から同感だったけどね。A氏は、ふっと紫煙を吐き出すと、「とはいえ……」と低い声で語りはじめた。
「犯人の気持ちがわからなくもない」と。なにを言いだすかと思ったけど、冗談のつもりはないらしかった。「どういうことです?」と訊いた。
「だって、そうも思わないかい? 考えてもみてくれ。犯人はきっと殺人衝動を持ったやつだ。それは生来的なのか、後天的なのか、知らないが、いわゆる欲動だ。性欲と同じだ」
俺は口が塞がらなくなってしまったが、それもお構いなしの様子だった。
「セックスを法律で禁止してみろ。いったい、どれだけの男女がヤらずに我慢できると思う? その点では、衝動を持ってしまったやつってのは、かわいそうなやつなんだよ」
俺はドン引きしていたけど、資本主義社会における勝ち組には敬意もあるから、それらしく、大人びた相槌を打ってみたが。なんとなく、嫌な予感がしていた。A氏の得意げな顔を見つめるうちに、こいつ、もしかして逝っちゃってるんじゃないか……って、そんな気がしてきた。
極めつけは、そのとき、A氏がこれ見よがしに落とした小さな物体だった。ポケットから、ぽろっと落として、慌てて、拾った。それはどう見ても、人間の小指のようにしか見えなかった。リアルな小指の形をしたレプリカだった。
「ただのキーホルダーだ。ほんの冗談だよ」とA氏は笑った。小指のキーホルダーなんて、誰が笑うよ?
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