もちろん、口にできる快楽じゃないけどね
A氏とはじめて会ったのは、あのバーだった。なんてこったない、おんなじバーでよく見かけるんで、互いに顔見知りになったんだ。それだけ。ほんと、それだけだった。A氏がどんな人物かも知らなかった。
最初のうちは言葉を交わしさえもしなかった。あまりによく顔を見かけるので、「また、ですね」くらいは声をかけるようになった。独り身の親近感でもあったんでしょうよ。お互い、三十くらいだったし、バーにくるときは、たいてい、独りだったんだから。
そのうち、「せっかくなんでご一緒に」って誘ってきたのはA氏のほうだった。素直に言うとね、その誘いは嬉しかったよ。誘われて嫌な気になるタイプじゃないからな。俺たちはバーの隅っこの席で、自己紹介をしながら飲んだんだ。
そのとき、A氏がものすごい実業家だってことを知った。組織のトップに立つ人って孤独になるんだろうねぇ、みたいな浅はかな想像しかしなかった俺だが。しかし、実際、A氏は孤独そうな顔をしていた。ま、その孤独を、露骨に露わにすることもなかったけれど。でも、だよ。だんだん酔いが回ってくると、A氏の態度は抑制を失うようになって、だんだん自分に酔っている大根役者みたいになっていった。物憂げな実業家を演じ始めたんだよ。
ドン引きだね、悪いけど。俺って、昔からそうなのよ。こういう場面に出くわすと、なに酔っぱらってんの、ってツッコみたくなる。実際、酔っぱらってるわけだし。当然、そこは悪いところだと自覚してるし、人間として大きくならないとなって思うところなんだが……。
それはさておき、物憂げな中年男性に付き合うのもどうかと思って、俺はA氏から早く遠ざかりたいと思うようになった。その様子に気づいたのかどうかはよくわからないけれどね、そのとき、A氏が俺を引き留めるように、こんな説得を始めた。
「これ以上、面白い話が出てこないと見切りをつけているのか? だったら、まだ少し早いかもしれない」
頬をもちあげながら、そんなことを、ぽつり。俺は丁寧に「じゃ、どんな話です?」と訊いた。A氏はたっぷりと間を空けてから、ようやく口を開いた。
「きみが一度もやったことがない快楽を、わたしはもう何度も経験している」
「舐められても困りますよ」と俺が経験談を披露しはじめると、いいや、違う、とA氏は首を振ったんだ。
「そんなの、快楽のうちに入らないね。快楽ってのは、つまり……」
そこまで言って、思わせぶりに口を閉ざした。A氏はそれ以上なにも語らなかったよ。でも、なんとなく、その先がわかるような気がするんだ。人間にとっての快楽なんてたかが知れてる。
もちろん、口にできる快楽じゃないけどね。
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