傾き

 長い間、ニートだった。社会の役に立てるなんて思っていなかったから、適当に生きていくつもりだった。その感覚がズレていることに気づいたのは、二十五を過ぎてからだった。誰も社会の役に立とうなんて思っちゃいない。ちょっとだけ誰かの役に立てばいいと思っているだけだ。僕も、ちょっとだけなら、誰かの役に立てるはずだった。


 求人サイトでバイトを探す中で、自分にもできそうな仕事が見つかった。それは不動産屋のバイトで、物件の写真を撮ってまわるだけの仕事だった。なんという仕事だ。こんなに簡単な仕事があっていいのか、と思った。でも、これだけでたしかに役に立つ。不動産屋の従業員が写真を撮ってまわるんじゃ、時間がもったいないからね。


 もともと散歩が好きだった僕には、かなり向いていた。おまけに人間関係のストレスがこれっぽっちもない。天職と呼んでもいいのかもしれない。あらかじめ指定された物件をまわり、写真を撮っていくだけ。


 バイト中、頭の中は自由だった。さすがにイヤホンをするのは気が引けたが、頭の中ではいろいろな音楽を流した。過去の記憶が浮かんでくることもあった。中学生のころの思い出とか、高校時代の消したい黒歴史とか。


 今日も、いくつかの物件をまわり、写真を撮っていった。三つ目の物件を訪れているときだった。そこはアパートの一室だった。いろいろな角度から写真を撮っていたとき、転んでしまった。躓くものはなにもなかったのに。どうして転んだんだ、と床を観察していると、もしかして床が傾いているのではないか、との考えにいきついた。


 偶然、そのとき僕はビー玉をポケットに入れていた。バイトの途中、大好きなアニメのガチャガチャを見つけて、一度だけ遊んだのだ。そのとき手に入れたアニメキャラがプリントされたビー玉だった。試しにビー玉を床に置くと、予想通りに転がった。


 そこまではよかった。そのあとは、少しおかしかった。


 床を転がっていって東の壁にぶつかったビー玉が、僕の目の前で、壁を上りはじめた。意味不明な出来事が目の前で起こると、頭が働かなくなるみたい。ビー玉が窓から出ていったので、僕は、ビー玉を追いかけるために玄関から外へ出た。


 ビー玉は真昼のコンクリートの車道を進んだ。どう考えても傾いていない方向に、意志を持っているかのように転がっていった。追いかけていくと、十分ほどしてビー玉が止まった。そこはアニメ制作会社の入ったビジネスビルの前だった。


 なるほどね、と僕は思った。思い出した――というより、ビー玉が思い出させてくれたんだ。僕の心がすっかりアニメに傾いていることにね。このバイトを続けながら、かつて見た夢をまた追いかけてみようと思う。心が傾いている方向に進んでいくのが、自然な流れでしょ。

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奇妙な日記 山本清流 @whattimeisitnow

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