第百十二話 聖女の祈り



『精霊神様、ライナーの処遇ですが』

「完全に消え去る前に、救い出してやりたいと?」

『……はい』


 ライナーが修行を始めた直後、風の大精霊は精霊神に助命嘆願をしていた。


 もう己の力が及ぶ範囲には居ないが、精霊神なら時空の狭間から救い出すこともできるだろう。

 そう信じて、大精霊は言葉を待つ。


「彼がやろうとしていることは、自滅にも等しい愚かな行為です。万人が見て、万人が無謀だと笑うでしょう」


 少しの間が空いて。

 精霊神本人も、ライナーの挑戦は無謀だと言う。


「彼は特別な血統を持つわけではなく。運命に導かれたわけでもなければ、果たすべき使命もない。言うなれば凡人です」


 ライナーは選ばれし勇者でもなければ、生まれ持った宿命があるわけでもない。

 少なくとも覚醒するような要素はどこにもない。


 父親の腕っぷしが強いこと。

 特徴と言えばそれくらいの、普通の平民だった。


「万が一にも勝ち目は無いでしょうね。間も無く彼の自我は消えて、魂は自然に還る。いえ、もう輪廻した頃でしょうか」


 自我の消滅と共に、魂が消え去るか。

 それとも転生して、来世を迎えたか。


 調べれば分かることでも、彼は調べようとはしない。

 ただ玉座に座り、静かに待つだけだ。


『そうなる前に助けたいと言っているんです! 奴がまともに修行すれば、大精霊になることもできます! オレが育てますから!』


 風の大精霊が利を説いて説得しようとする。

 しかしライナーを助けようとするのは、単純に彼のことが気に入ったからだ。

 そんなことは精霊神にも分かっていた。


 それを微笑ましいと思いつつ、それでも彼は動かない。

 彼は大精霊を嗜めるように、優しく言うばかりだ。


「誰が見ても望みが無い。絶望。万が一、億が一にも勝ち目がない状況に抗い、絶望を覆した者だけが――英雄と呼ばれるのですよ」


 英雄。ライナーの姿からは想像もできない肩書だと、大精霊は思った。

 しかし精霊神は、いつも通りに落ち着いている。


『ライナーが、そうだと?』

「さて。それは何とも。……信じて待ちましょう。彼が戻る時を」


 これ以上は何を言っても効果はない。そう悟った風の大精霊が下がるかたわらで。

 精霊神は目を閉じて、社の前に漂う光を掬い上げた。


「私も、本来の仕事をするとしましょうか」

『仕事……ですか?』

「ええ。これはサービスです。願いや想いを届けるのも、精霊の仕事……。いえ、奇跡を起こすのが仕事とも言えますからね」


 微かな光を拾い上げて、透き通るような蒼い薔薇の形に変換し。

 彼はそれを、虚空へと散らした。


『主上様、それは何です?』

「彼がいる空間は、光速へ限りなく近い場所です。……が、時間が完全に停止しているわけでもありません」

『え? は、はい』

「数十兆年につき一秒ほど、時が進みます。現実に、八時間ほどは経ちましたか」


 何の話か見えてこない大精霊ではあるが。

 精霊神はとにかく上機嫌だった。


「世界が終わりを迎え。その身が朽ち果てようとして。なお、誰かのために祈ることができる。その人を、聖女と呼んでもよいでしょうか?」


 それは在り方の問題だ。

 無償の献身ができる者という意味でなら、そう呼んで差し支えないだろう。

 特に否定することはないかと思い、大精霊も頷く。


『聖女? そんな奴がいれば……まぁ』

「であれば問題はありませんね。彼女の祈りは、届けて差し上げましょう」


 そう言うなり、精霊神は再び目を閉じた。






     ◇







「本当に……出来過ぎた、人生でしたわ」


 スタートラインを考えれば、幸福過ぎるほど幸福な人生だった。


 生まれた時から没落確定。

 平民でも貴族でもなく、身の置き所が見当たらない幼少期が始まりだ。


 せめて学力と教養をつけさせようと。親から入れられた学校でルーシェに、ついでにアーヴィンとも出会った。


「あれは、もう……十年前、ですか」


 貴族へ返り咲くためはどうしたらいいか。

 何か大きな功績を上げるか、莫大な資金を得るか。

 道はその二つだ。


 貴族男性と結婚という道もあったが、それは選ばなかった。

 リリーアもルーシェも恋愛結婚派だったので、同じ境遇にいた二人は共に冒険者を目指すことにした。


「最初は、何一つ、上手くいきませんでしたのに、ね」


 切羽詰まっている二人は足元を見られて、いい案件を回してもらえなかったり。


 依頼書の端に、小さい文字で「受注から二時間以内に達成すること」という条件がつけられているのを見落としたまま、丸一日かけて魔物の討伐に向かって。

 結局報酬は貰えず、そういう詐欺があると知ったり。


「あれもいい勉強、ですか」


 意外と抜け目のないララが、契約書の気になるところを無言で指すようになってからはそういう被害も減ったし。


 あざとさ全開のベアトリーゼが「ねぇねぇ、これおかしくない?」と小首を傾げて聞けば、変な依頼は大抵引っ込められた。


 セリアの斧も、威圧感という面ではいい仕事をしたし。

 彼女がナンパ男を撃退した数も相当なものだ。


 そんな思い出が、次々とリリーアの脳裏に浮かんでいた。



「しかしあの街。どうして、斥候職の雇用相場が……あんなに高かったのでしょう」


 親の反対を押し切って冒険者となり、仲間を見つけてまた次の街へ行く。

 そんなことを繰り返しているうちにライナーと出会った。


 とある街で。銀貨四枚で済むくらいの仕事に、何故か銀貨十五枚を要求された時。

 相場くらい知っている。

 B級冒険者を舐めているのか。

 と、思ったが、その街では本当にそれが相場だったらしい。


 道案内は欲しいが、斥候を雇うと高くつく。

 困っていた時に紹介されたのが、雇い先が見つからないというライナーだ。


「まあ、それで出会えたのですから。悪いことばかりでも、なかったのですが」


 彼を雇ってから先は激動の人生だった。


 普通の依頼があっさり終わってしまうので、ドラゴン撃退に行ったり。

 言いがかりで二頭目のドラゴン撃退に出かけたり。それで叙爵されたり。

 とんでもない田舎に送られて、とんでもない政策で発展する領地を眺めたり。


 ――流されて、結婚することになったり。


「王族にまで、なるとは。思いませんでしたが。……ふふっ」


 仲間を奪還するために大暴れして、王国に居られなくなり。

 没落した一族の人間も丸ごと王国から離反して、今や王族の親戚をやっている。


 権力を傘に着ることもなく働いて、真面目に領地を治めているところを見れば。

 貧乏というのは人を焦らせて、判断を鈍らせるものだと改めて思う。


「……マーシュ、さん。いらっしゃいますか?」


 そこで一旦思考を区切り、部屋の前で見張り番に立っている冒険者を呼んだ。

 朝方と深夜の間、日の出までもう少しといった時刻だが。

 幸いにして彼は、寝ずの番を続けていたようだ。


「お呼びで?」

「ええ、少しお願いが」

「何でも言ってくれ。水でも飲みたいのか?」

「いえ、私を……外に、連れ出してください」


 その発言に、マーシュは面食らう。

 異常に致死率が高い上に、感染力の強い病気だ。

 誰も外に出してはいけないし、既にマーシュすら自由に表を歩けなくなっている。


「外にって……中庭、とか?」

「いえ、精霊様の……やしろ、へ」


 戦場から帰ってきてすぐに病院へ直行して、そこからずっと警護の任についているのだ。彼も病人と同じく扱われていたので、外出禁止を言い渡されていた。


 リリーアなどは言うまでもない。

 明日ともしれない命であり、重症の患者を外に連れ出すなど許されないだろう。


「交渉してみるけど、期待はしないでほしいかな」

「……交渉は、いりません。そこから、こっそり」


 示す方向を見れば、窓があった。

 ここは二階なのだが、リリーアは窓から飛び降りると言っているようだ。


 正確に言えば。マーシュが彼女を抱えて飛び降りたあと、社まで送り届けるというのが彼女の望みらしい。


「……よし分かった。テッドが裏手の見張りをしているから、そっちから出よう」

「よろしい、ので?」

「ちょっとそこまで出かけるだけだ。そんなに長い時間は無理だからな」


 そう言うなり、マーシュはリリーアを抱えて窓から飛んだ。


 少しだけ積もった雪の上へ、音も立てずに着地して。

 中庭から建物の裏手に回ると、そのままテッドの横を通り過ぎて行く。


「悪い、出かけてくる!」

「え? ちょっとマーシュ! 君は外出禁止――って、リリーア様!?」


 テッドは驚いているが、彼が上手く誤魔化してくれたとして、朝にも回診がある。

 それまでに戻りたいマーシュは人通りの少ない場所を選んで駆け抜けた。


 夜明け前。雪の降る、人が寝静まった街を駆けていく。



 そして、ほどなくして目的地へ辿り着いた。


「ここから先は。自分で、歩きます」

「結構降ってるけど、大丈夫か?」

「ええ。その方が、ご利益がありそうなので」


 そう言って、参道になっている石の階段を。

 一段一段、ゆっくりと上り始めた。


 風が強く。地吹雪が視界を遮る中で、ゆっくりと進み。

 少しふらつきながらも、彼女はお参りをする社の前にまで歩みを進めていく。


「精霊様のお姿を、見ることができるの……ですもの。きっと、ご利益はありますわ」


 冷えた身体で地面に跪きながら。

 彼女は両手を合わせて、祈りを捧げる。


「私、死にたくありません。まだ、やりたいことが……たくさんありますもの」


 精霊はもうここにおらず、ただの社でしかない。

 そうとも知らずに、彼女は祈る。


「折角、幸せになれて。地位も、名誉も、手に入れて。頼りになる夫がいて。仲間たちや領民の皆さんとも、幸せに、暮らせて……」


 リリーアの命はもう尽きる。


 病気が身体を廻り切り、既に薬があっても助からない状態だ。

 それでも彼女は、最後に神頼みをしておきたかった。


「ええ。私は、幸せでした。きっと皆も、そうだと思います」


 視界が歪み、倒れ伏しそうになる中で。

 彼女は、まだ願いを言っていないと思い気を取り直す。


「……ただ、もし。私が助からないとしても。一つだけ、願うことがあります」


 朦朧とした意識の中で、視界が更に歪む。

 目元が凍りそうになる中で。

 頬を伝い地面に落ちた雫が、雪を濡らした。



「私の大好きな人たちが。――愛する人が。これから先も、どうか、幸せに――」



 彼女が人生の最期に、想い出を振り返れば。

 楽しかったこと、嬉しかったこと。

 幸せだったことしか思い浮かばない。


 彼女が願うことは。一緒に笑っていた人たちが。

 仲間たちと、最愛の人が。


 これから先も幸せに生きてほしい。ただそれだけだった。


 神通力を持つ精霊なら、何とかしてくれるかもしれない。

 自分はもう無理だとしても。

 仲間を、家族を守ってほしい。


 その祈りを捧げたまま、彼女は崩れ落ちる。


 意識は沈んでいき。

 頬に当たる雪の冷たさ以外には、何も感じなくなった。


「もう、五月、ですのにね」


 リリーアは花が好きだった。

 パーティの名前、蒼い薔薇という名も彼女がつけた。


 花言葉が「不可能」と知って、ルーシェは縁起が悪いと止めたが。

 それでもワガママを言い、押し通したくらいだ。


 空は曇天で、四月が終わるというのに雪が降り注いでいる。

 春先に咲く花はしおれて、社の周りにある花壇には何も見えなかった。


「あーあ……。死ぬなら、せめて。花畑か、……ライナー、さんの……」


 そこまで呟いた時、雲の切れ間から夜明けの光が差す。

 ああ、迎えが来たのだと思いながら。

 リリーアは、か細く伸びる光を見つめていた。



 誰もいない。

 何の音も聞こえない。

 寂しい終わり方だ。


 そう思いながら、緩やかな死を待っていた彼女の肩に――ふわりと、上着が掛けられた。



「こんなところで寝るなんて、名誉が第一のリリーアらしくないな」



 どうして社から出てきたのだろう。

 都合が良すぎる。

 もしかしたら、最期に見る幻かもしれない。


 そんな思いが頭を過ぎったが――リリーアは肩に回された手から、微かな温かさを感じた。


「たまには、いいでしょう?」

「そうだな。俺もこの時期は、よくここで昼寝をしていた」


 いつもの通りに何でもない会話をしながら、手から伝わる熱で実感する。


 彼は確かに本物のようだ。


 ――彼女が最期に会いたいと思った人は、いつも通りにそこにいた。


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