第百十一話 光速を超えて
「久しぶりですね。ライナー・バレット」
「ああ、今日は一つ、聞きたいことがあって来た」
「はい、なんなりと」
十数年ぶりに会う男は、いつかと変わらず
全てを見透かしたような目を正面から見据えて、ライナーは早速切り出す。
「特殊相対性理論。光の速さへ近づくほど、時の流れは遅くなる――で、合ってるか?」
「厳密に言えば違いますが。まあ、その認識で良いでしょう。……それで?」
まずは前提を確認してから、ライナーは更なる先へ切り込んでいく。
これが成らなければ全てはご破算なので、彼は真剣に。本気で絵空事を言う。
「光の速さに到達すれば、時間は停まる。それなら、そこを超えたなら――戻ることもできるんじゃないか?」
ライナー自身が速度を極めて、光の速さを超えれば。
光速を。秒速、約30万キロメートルを超えたなら、時は巻き戻るのではないか。
技術力という時計の針を進めることができなくとも。
問題が起きる前の過去へ、時計の針を戻すことはできるかもしれない。
そこに考え至ったライナーが詰め寄れば。
精霊神はゆっくりとした口調で、その仮説を否定した。
「質量を持った物体が光速度に近づけば。衝撃に耐え切れず自壊します」
「そうだな」
「人の身で、光速度の制御もできません。仮に光の力を得たとして。貴方が光の速さでこの星に衝突して――全てが砕けるでしょうね」
「それもそうだ」
精霊神は、当たり前のことを言っている。
ごく普通の、ありふれた常識の話だ。
そして彼はこうも続ける。
「また、残念ながら。時間の流れは不可逆です。過去へ戻ることはなく、未来へ向けて流れ続ける。ただそれだけです」
「それが、
「まさに」
精霊神は目を閉じて。遠い過去を回想するように、切なげな表情を浮かべた。
それは何に対しての悲しみなのか、ライナーには分からないが。
「決して戻れはしない過去だからこそ、人は悔やむのでしょう。決して取り戻すことができない過去だからこそ、人は
精霊神は目線を外して、何もない空間に語り掛ける。
切なそうに語るが、しかし。ライナーはもう限界だった。
これ以上この茶番に付き合ってはいられないとばかりに、半笑いをしている。
「アインシュタインの居た世界でなら、そうだったろうな」
「彼の世界だけではありません。……時は戻らない。これは不変の真理です。それが
「……理、ね。……ふっ、ふふ。ふはははは! はっはっはっはっは!」
そして、とうとう。ライナーは口を開けて笑い始めた。
こんなにおかしいことはないと。
一体何の冗談だと思いながら、彼は眼前の男に人差し指を向けた。
「何をバカなことを。理を超えた存在なら、今まさに、俺の目の前にいるじゃないか。なぁ、光の
精霊とは何か。
世界を守り、司り。英雄や救世主を助けて、世界を発展させる者。
意思を持ったエネルギーの塊で、
彼らは物理法則を始めとした、世界の
「彼が居た世界には奇跡も魔法も無かった。あるのはただ、科学という現実だけだ」
だからこそ、
光の世界は想像と計算の中にしか存在せず、彼らにとってはファンタジーだ。
しかし、この世界では違う。
その
「精霊の力は理を作り、理を変える。時間の法則が過去に戻ることを否定するのなら、その法則を変えるまでの話だ」
科学力、化学力、技術力、魔法力、異能力、超能力、文明力。
あらゆる進歩が遅れたこの世界で唯一使える、一発逆転の力が精霊術だった。
精霊の力を使えば、道理を無理で押し通すことができる。
「光の大精霊でも、その力は持ち得ません。自らの力を超えた概念には、精霊とて無力なのですよ」
「光の大精霊が、光の速さでしか動けないのなら。その速さを超えればいい。今日から俺が精霊王だ」
それを否定する精霊神の話など、最早ライナーは聞いてもいない。
彼はもう、真っ直ぐに突き抜けることしか考えていなかった。
光の大精霊でダメなら、もっと上に行けばいいだろう。
ライナーはこれを、真顔で言っている。
「精霊王でも、まだ足りません」
「だったら精霊神にでもなるさ。それならどうだ?」
「ええ、そこまで至れば可能です」
どうだ、できるんじゃないか。
そう言わんばかりの表情をするライナーに対して、目の前の精霊神も真顔で返す。
「しかし光の精霊ですら、最上位の存在。
「超えてみせるよ。その先にしか未来がないのなら」
時空を過去に巻き戻す。そんなことは正しく神の御業だ。
その域に到達するのは遥かな道になるだろう。
だが、彼にブレーキなどついていない。
生涯を終えるまで、最高速で生きることしか考えていないのがライナー・バレットという男だ。
「行く道が一つしか存在しないのなら。例え何億年かかろうとも、終わりに向けて進み続けるのが一番早い」
彼自身が光を超えること。
速すぎて、時間の概念が破壊されるまで速くなること。
ライナーはただ最速を目指す。
彼の目にはもう、
「それが、貴方の選択ですか。……よろしい、次元の狭間へご案内しましょう」
そう言って精霊神が手を
その虚空を指して、精霊神は言う。
「貴方には、大千三千世界を渡り歩いていただきます」
世界が千個集まったものを小千世界。
小千世界が千個集まったものを中千世界。
中千世界が千個集まったものを大千世界とする。
そんな概念はライナーも知っている。
だから、先の展開にも予想がついた。
「十億個の世界を巡り終わるまで。それが修行期間か?」
「その通りです」
精霊神は頷いた後、そこに補足を加えて行く。
「一つの世界が始まり、終わりの時を迎えるまでの139億年。そこに、この世界が完全に滅びるまでの半年を加えた――」
「1390京と半年、か」
計算まで早い男は、一瞬で期間を導き出した。
途方もないほど遠い道のりであると、いつも通りのフラットな声で確認する。
「修行期間は予想よりもかなり多いが、時間の経過が無いなら耐えるだけで済む」
1390京年。
宇宙の誕生から終焉までを十億回繰り返す。
それが、ライナーに課せられた修行期間だ。
「光の大精霊と同じ力を得るだけでも、数千億年はかかるでしょう。それより先に進み、力を得られるのか。それとも永劫の時を経て、なお、何も得られないか……」
光の速さへ到達するまでに数千億年。
その先へは行けるかどうかも分からない。
全知全能のような雰囲気を持つ精霊神にしては、曖昧な言葉が出てきた。
そのことで、ライナーが分かるのは。
「神のみぞ――いや、神にも分からない領域、か」
「はい。私が神となる時、それくらいの時間が必要だった……それだけの話です」
このままだとライナーは、どこともしれない空間で永劫の時を過ごすことになる。
そんな時間を生きれば精神が崩壊し、間違い無く廃人になるだろう。
『無理に決まってる! ライナー! おい、バカな真似は止めろ!』
だから、大精霊は今度こそ止める。
ここが最後の機会なことは分かり切っているので、本気で説得をしようとした。
しかしライナーは微笑むだけで、止まらない。
「心配してくれてありがとう。……大精霊、お前は優しいな」
『な、何言ってんだよ、バカ!』
球体のような身体を撫でて、微笑みを浮かべてから。
ライナーは次元の狭間への入口へ振り向く。
「少しの別れだ。時間の経過が無いなら、数秒かな?」
『人間の精神力で耐えられるわけがないだろ! そんなの無理だって!』
「無理……なるほど、不可能か」
無理。言い換えれば、不可能。
ライナーとしてはその言葉に、少し思うところがある。
大精霊に背を向けて歩き出しながら。
ライナーは領主になった直後に聞いた、とある話を思い出していた。
「リリーアから、パーティ名の由来を聞いたことがあるんだが。今なら俺も、その名を背負う資格があると思うんだ」
青いバラが持つ花言葉は「不可能」だ。
無謀な挑戦をする私たちには、ふさわしい花だったと言っていた。
――しかし、その不可能は覆された。
「だから、俺は行くよ」
覚悟を決めたライナーは。
最後に笑いながら振り向いて、大精霊に宣言する。
「俺は、A級冒険者パーティ蒼い薔薇の斥候――ライナー・バレットだから」
思えば、彼がこう名乗るのは初めてかもしれない。
その名に誇りを持ち、ライナーは目の前の世界へ飛び込んだ。
青いバラの花言葉は、不可能。
しかし彼女たちは、夢を、目標を実現させた。
不可能だと思われる狭き門。
成功するかどうかも分からない、遥かな道程。
世界の時間を巻き戻すという、ただの夢物語。
不可能を覆して、全てを救うために。無限とも思える修行が始まった。
◇
何も無い光の中に、意識が溶けていく。
最初は、白い時空の中をただ落ちて行く感覚があった。
次いで、強引に背中を掴まれる感覚があり。見も知らない世界へ放り込まれた。
龍が世界を支配したが、氷河期を迎えて滅んだ世界。
鳥が世界を支配したが、食料を食い尽くして滅んだ世界。
人間が世界を支配したが、外宇宙から飛来した隕石で、惑星ごと滅んだ世界。
数々の滅びと再誕を眺めながら。
いずれ宇宙が終わり、また始まる。
こうして新しい世界が生まれ続けた。
今度は星の海に投げ出されたようだ。回る天体と共に、
北極星が朽ち果てて、指針となるべきものすらなくなり。ただの暗闇を漂う。
また再誕を迎えたが、今度の世界はすぐに消滅して。
何も無い真っ暗闇の空間で、数十億の時を過ごす。
――
熱風に晒された粘土を引き裂いたように。どろりとした手触りだけを残して、肉体と意識が分離したのは覚えている。
前に走ろうとしているのに、身体は意識に追いつけず。
進む方向の正反対へ飛んで行く感覚があった。
精神の
意識だけが世界と、ドロドロに溶け合いながら進む。
そんなことをしているうちに、心も身体も宙に溶けていった。
世界と同化してしまい、己と意思と世界の境界線が曖昧になっているのだろうか?
そんな疑問を抱いているうちに、どうやらまた世界が終わったようだ。
魂だけが
訳が分からず。理解も及ばない。
見ている光景に。
肉体への感覚に。
失いつつある心に。
全てに手が届かない。
数千億、数千兆年の時を過ごすうちに、精神も思考も擦り切れて消えた。
最早
己の存在すら希薄になっていく。
思考能力すらも失われつつある中で――誰かの祈りが、届いた気がした。
彼の目の前で、青いバラの花びらが暗闇に舞う。
誰のために。何のためにこんなことをしているのかは、もう覚えていない。
しかし、胸には何か温かいものを感じる。
――もう少しだけ、頑張れそうかな。
そう思いながら彼は加速を続けて、
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