第百十話 速さに関する絵空事



 リリーアの病状が書かれた診療記録。

 その情報を基に調べれば、似た特徴を持つ病気はすぐに見つかった。


 ペストと、エボラ出血熱だ。

 リリーアはこれを併発したような状態にある。


「……なんだよ、これ」


 ペストは別名「黒死病」と呼ばれていた。

 感染力が強く、致死率も高い。


 エボラはペストよりも更に致死率が高く、発症から数日で死に至る病だ。

 リリーアは既に吐血の症状が出ているので、症状はかなり進行している。


 普通のやり方では治す手立てがなく、感染うつされた人間も死ぬ。

 発症した時点で隔離されて。

 誰とも会わずに、命が終わる時を静かに待つしかない。


「薬でも、魔法でも、奇跡でも。助かるなら何だって構わない。……とにかく、治療法を探そう」


 一つだけでも絶望的なのに、少なくとも二つ。

 両方の特徴を合わせて、悪い部分だけが強化されたような疫病だ。


 特徴を見つけることができたのはこの二つだが。蟲毒こどくで出来上がったというなら、もっと多くの病気が結合しているかもしれない。

 ともあれ。あらゆる本を読み漁り、病気に対する対策は山ほど出てきた。


 ――だが、どの手段にも手は届かない。



「薬学、科学」


 この世界の薬学は全くの未発達だ。原始的な抗生物質すら作れておらず、ほとんどが薬草か民間療法頼り。科学技術は未熟で、顕微鏡一つ作れない。


「魔法、奇跡」


 魔法体系は未開で、死者の蘇生どころか擦り傷を治すので限界。

 異能や超常の力で、病を治す手立てもない。


「霊薬と神話」


 都合良く万病を治癒できる、世界樹のようなものは生えておらず。

 仮に、この世界のどこかにあったとして。地脈が枯れ果てようとしている今では枝葉も実も無くなっているだろう。


 各種の精霊はいるが、祈りに応えて病気を治癒するような神はいない。



「遠いな……あまりにも」



 あらゆる可能性を探したが、あらゆる可能性に手が届かない。

 この世界は、可能性から遠すぎた。


 この地に蔓延まんえんする伝染病を根治させるには、少なくとも二十二世紀の医療技術が要る。

 しかし。そこへ辿り着くには、あまりにも文明の進歩が足りていなかったのだ。


「……できることから、やるしかない」


 そう呟くも。現状ではできることが限りなく少ない。

 ライナーは一旦、神話や霊薬の本を脇に置いて。解決策を探るべく、化学、薬学の本を中心に読み進めた。


「薬の製造で対処するのが一番現実的だとして。どうすれば実現できるか」


 抗生物質を始めとした薬など、入手方法すら無い状態だ。

 そもそもライナー以外の人類は、そんな薬の存在などを知りもしない。


 工場を建て量産体制を築くのが無理なら、研究者の育成など間に合うわけがない。


 この世界は地球で言うところの、中世前期と同等かそれ以下の科学力しかない。

 元のレベルが低すぎた。


「……俺一人で、時計の針をどこまで進められるだろう」


 では、精霊の大図書館に機材を持ち込み。自分一人で研究を完成させればいいか。

 それも想定したライナーだが、一瞬で自らの発案を否定した。


「いや、ダメだ。それでも間に合わない」


 セリアの領地でビーカーやフラスコを生産してもらうとして。

 ガラスの強度などを試行錯誤している間に、一ヵ月くらいは平気で経ってしまうだろう。


 残された時間は、長くとも数日。

 短ければ数時間しかない。


 今、身の回りにあるもので何とかするしかないのだが。薬の研究を始めるどころか研究を開始するための道具すら用意できない。


「科学の道は遠すぎる。やはり、霊薬や奇跡のたぐいで何とかするしかない、か」


 そう言いつつ、ライナーはまた新たな本を開く。


 しかしそれでも、未来は見えない。

 あらゆる可能性を模索するが、あらゆる手段に手が届かない。


 絶望の文字が頭を過ぎる度に、ライナーは頭を振ってその考えを打ち消した。



「まだだ。俺が諦めたら、全てが終わる。……まだ、終わってはいない」



 覚束ない足取りで、ライナーは書庫の奥へと足を進めていく。


 これが、長く険しい。

 果てしなく続く、彼の戦いの始まりだった。







    ◇







 もう、何千冊、何万冊の本を読んだかも分からない。

 未だに解決策は見当たらない。

 それでも彼は、治療の方法を探し続けていた。


『ライナー。もう、いいだろ?』

「……大精霊か」


 そして。一人で図書館に籠っていたライナーの前に、久しぶりの客が現れた。

 風の大精霊はそっと近づくと、その身体を明滅させて語り掛ける。


『お前は、十分に頑張ったよ』

「……まだだ。まだ、終わらせないさ」

『世界が滅びようとしているんだから、抗えるわけがない』


 大精霊は止めるが、ライナーは本を読む手を止めない。


 見落としているだけで、何かこの惨劇を回避する方法はあるかもしれない。

 その想いだけで、彼は希望を探していた。


「どんな問題にでも、解決策はあるはずだ。希望がある限り――」

『もう十年も探し続けてるじゃないか! もう、分かっただろ!?』


 大精霊は敢えて、「無理」という言葉は使わなかった。

 しかし、話の早いライナーだ。

 言いたいことは理解できる。


 それでも諦めるわけにはいかないと、本の内容に集中しようとして。


 ふと、我に返る。


「俺は、十年もここに居るのか?」

『気づいてなかったのか。……そうだよ。毎日毎日、寝ている時以外はずっと本を読み続けてさ。もう見ていられないんだよ!』


 大図書館に時計は無いし、空はいつでも黄昏時だ。

 確かに日付は分かりにくいが。

 しかしライナーの体感では、三年も経っていないと思っていた。


 いくら集中していたとして、年単位で日付の間隔が狂うなど異常だ。


 己が正常でないことを確認したライナーだが。

 それでも、本を読み進める手は止まらなかった。


「……ここには、あらゆる知識が集積されているんだろ? 探し続ければ、いつかは当たるはずだ」

『ライナー、この状況から逆転する方法なんてものは。もうこの世界のどこにも無いんだよ』


 本とライナーの間に挟まるようにして、大精霊は詰め寄る。

 ライナーはどかそうとするが。しかし、頑としてその位置を譲らなかった。


『ライナーがどれだけ頑張っても、できるのは世界の歪みを絶つことだけだ。敵を倒すことはできても、失ったものは……元には戻らないんだよ』

「敵なんて倒せなくてもいいし、まだ失ってもいない。……失わないために、俺はここにいるんだ」


 ライナーも頭のどこかでは分かっている。

 彼も、調べものを始めてから数か月が経つ頃には、理解した。


 病気を治すことはできない。

 民や仲間。家族を救うことは、できない。

 その現実は嫌と言うほど知っていた。


『無理なんだよ、ライナー。この世界は滅びる。それが自然の摂理で、ことわりなんだ』


 既に、ライナーたちにも逃げ場はない。

 彼らがいる大陸以外は全て、疫病や天変地異で滅びを迎えたのだ。

 彼らのいる場所が、今、生物が暮らしていける唯一の領域だった。


「……それを認めたところで、どうなる」


 この大陸でも既に疫病は広まった。

 間もなく、世界は滅びる。

 そうだとして、ライナーの答えは変わらない。


「皆で仲良く死に絶えて、俺だけが精霊に生まれ変わって。世界の再生のために力を尽くして生きろと?」


 自分にできることなどない。既に全てが手遅れだ。

 それはライナーも知っている。

 しかし彼は、足掻くことを止めなかった。


「そんなもの、俺は御免だ。俺が望むのは日常なんだ。精霊として、世界を見守ることなんかじゃない」


 諦めるのが、一番早い。


 理屈は分かる。

 理解はできるが、ライナーには受け入れることができなかった。

 首を横に振り、溜息を吐きながら現実を否定する。


『ライナー……』

「時間の感覚が壊れても、体感時間が狂っても……俺の頭はまだ正常だ。まだ思考力はある。だから俺は――」



 体感時間。



 その言葉を発した瞬間、ライナーの脳裏に微かな引っ掛かりがあった。

 彼はその違和感を必死に、即座に手繰り寄せる。


「……待て。そうだ、確か、あれは」


 これを逃せばもうチャンスは無いという、確信に似た予感すらあった。

 今までの会話から、彼の中で何かが繋がる。


『おい、そろそろ本当に壊れちまうぞ。人格が壊れたら精霊にもなれないんだからよ。もう諦めろって。オレはお前のことが――』

「体感時間のズレ、精霊の役割、この大図書館の存在・・と仮説・・・


 全ての事柄が、ライナーをある仮説へと導く。


「時間の停止? それが、できるなら……」


 この十年間、一度も触れなかった。

 触れようなどと欠片も思わなかったジャンルの本。

 それが置かれた棚に向けて、彼はふらふらと歩いていく。


「そうか……そうだ、確か、あれを読んだのは」


 先の見えない暗闇の中に差した、一筋の光。

 それを求めて、ライナーは乱雑に本の山を掻き分けていった。


 彼が探しているのは、医療の本でなければ魔術の本でもない。


 病気には全く関係の無い本。決して実現できないとされる、空想科学・・・・の本だ。



 それは奇しくも、速さに関する絵空事。



 それを探し求めて、ライナーは棚に手を突っ込み。

 次から次へと本をひっくり返していく。


『お、おい。何を探してんだ?』

相対性・・・理論の・・・本だ! これで最後にする。探すのを手伝ってくれ!」

『最後って言うなら、まあいいけどさ』


 無限に本が生まれ来る図書館。

 その中で、目当ての本を探すのにかかった時間は十五分ほどだ。


 震える手で本を読み進めて。


「精霊という存在、光の――そうだ、やっぱり。……これなら、できる」


 やがてライナーは、一つの結論に至る。


 この方法なら、リリーアだけとは言わない。

 全世界の全人類、全生物を救うことができる、と。


「は、ははっ。ははははは! なんだ、そうか。そういうことか! 結局のところ、俺が遅かった・・・・というだけの話じゃないか!」


 専門的な知識など要らない。

 そういうことわりがあると知るだけで、全てが解決される。


 心底嬉しそうに笑い、愛おしそうに本を抱きしめたライナーに驚きつつ。

 本の内容もライナーの態度もさっぱり理解できない大精霊は、戸惑いがちに聞く。


『えっと。特殊、相対性理論? それで何ができるんだよ?』

「何でもできる。これは究極の力――いや、究極の速さだ!」


 光の精霊か、それよりも上位の存在。その協力が要るのだが、幸いにして最も確実な・・・人物とはライナーも面識がある。


「精霊神に話をつける」

『え、おい。主上様に何をさせる気なんだよ……』

「話次第だ。ほら、行くぞ!」


 この理論を突き詰めたら、何ができるのか。

 その結果だけを頭に叩き込んでから。


 ライナーは図書館を出て、光の・・精霊神が座す玉座の間へと向かった。

 

 速さだけで、全てを救うために。


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