第九十七話 老兵の物語



 決着はついた。

 ノーウェルの拳は自壊して、立っているのがやっとの状態ではあるが。

 それでも、立っている。


 対して、ドラゴンゾンビの肉体は崩壊を始めていた。


『イノチヲ、ステタ……イチゲキ、カ』

「ふ、はは……。そんなに安いものか。誇りを捨てた一撃だ」

『ミゴト、ナリ』


 ドラゴンゾンビの肉体はちり状になっていき、骨が砂のようにこぼれ落ちて行く。


 呪いが解けたのか、火事場の馬鹿力なのか。どういうことかはノーウェルにも分からないが、彼にも少しばかりの理性が宿ったようだ。


 ならばと、彼は来た道を引き返し。

 途中に置いてきた酒瓶と盃を持ち、ドラゴンの前で胡坐をかいた。


「龍は酒を好むと言うが。一献、どうか」

『イ、タダ、コウ』


 元より、ノーウェルは魔物に対して隔意はない。

 森で過ごす時間が長かったせいか、全ての生物が自然の一部――つまり、どんな存在とも共存は可能だと思っているからだ。


 ドラゴンの身体からすれば小さな盃ではあるが。

 彼は後生大事そうに、注がれた酒をゆっくりと舐めた。


『ウマい、キガ、スル』

「気のせいでも構わんさ。わずかでも心が動いたなら、その感動を噛み締めて逝くといい」


 味を感じる身体は朽ち果て、心はとうに失ったはずではあるが。


 それでもノーウェルの目には、ドラゴンが美味そうに、嬉しそうに酒を飲んでいるように見えた。



「……見ろ、夜明けだ」


 そして、空を見上げてみた。

 周囲を漂う瘴気がいくらか晴れると、東の空には太陽が姿を覗かせている。

 朝焼けに照らされて、思わず彼は目を細めた。


「ああ、いい人生だった。……今、この美しき朝日を眺めているのは、儂だけかもしれんな」


 ポツリと呟いたあと。

 世界をどこまでも覆いつくす、分厚い曇天を見て言う。


 見渡す限りに雲が広がり、雲より高い位置にいるのはノーウェルくらいだろう。

 それを思えば、自然と笑いが込み上げてきた。


「はっはっは。太陽を独り占めして死ねるとは、何と贅沢な死に様ではないか」


 険しき道を行き、山々の頂にまで登ればこんなものだ。

 世界が暗闇に包まれようと、絶望に支配されようと。

 行くところまで行けば、陽は見える。


 晴れやかな気分で死ねるだけ得だなと思いながら、ノーウェルは己の身体を見渡す。


 ――最後のブレスは致命傷だ。恐らくは死ぬ。


 しかし、まあ、いずれにせよ。なるようになる。

 ノーウェルがそう割り切る横で、ドラゴンは抗議の眼差しを向けていた。


『私ニモ、ハンブン……分けて、モラオウカ」

「太陽を半分寄越せと? ははは、強欲なやつめ」

『仮ニモ、王、ダッタ、のでな』


 言葉が通じるなら。

 いや、言葉が通じなくとも、こうして分かり合うことはできる。


 彼も生前は龍王を名乗る存在だったそうだ。道理でゾンビになっても強いわけだと得心したノーウェルは、微かに笑って太陽から目を背けた。


「いいさ、一度戻らねばならんのだし……全てくれてやる」

『イク、ノカ?』

「ああ、馬鹿弟子どもが待っているからな」


 冗談を言い合えたことに満足したのか。

 酒の残りを全て盃に注ぐと、ノーウェルは立ち上がる。


「さらばだ、強敵ともよ」


 そして。そう呟いてから、振り返らずにその場を後にした。


 しかしこの足で下山は辛いな。などとボヤきながら、彼は帰りを待つであろう部下の元へ向かう。






    ◇






「師匠!?」

「マーシュ、任務は成功だ」


 全身ズタボロで、右手に至っては凄まじいダメージを受けている。

 ところどころ毒で変色していることもあり、マーシュは度肝を抜かれていた。


「えっと、なら、撤退を。いや、それよりも治療を」


 あっけらかんと言い放つ師に対して呆然としたが。

 何はともあれ撤退と治療が必要だと考えを切り換えて、マーシュは撤退の合図を出そうとした。

 しかし、ノーウェルはそれを止める。


「マーシュよ、儂は共に行くことができん。この毒は人に感染うつるかもしれんからな。……ともすれば、これが今生の別れだ」

「そんな!」


 見れば分かる。出血で死んでいないのが、不思議なくらいの深手だし。

 それでなくともドラゴンゾンビが放った毒――瘴気と病原菌の塊――に直撃したのだ。


 アンデッド化は避けたいと思うノーウェルだが。

 彼の身体に染みついた毒が伝染する可能性がある以上、少なくとも部下と共に行動はできない。


 せめて、目の届く範囲で死のうとは思っているが。

 と伝えた後、彼は優しい瞳で弟子を見る。


「マーシュ。道を誤るな。お前が信じるものを目指して、ただ、真っ直ぐに進め」


 友人と仲違いして、落ちぶれて、くすぶっていた馬鹿な弟子が。

 今や大勢の部下を率いて、彼らからの信頼を勝ち取るまでになった。


 若者の成長とは、なんと喜ばしいことか。

 そんな思いで、彼は最後の指南。心構えを説く。


「今のお前になら、見えるはずだ。己の命の使い方。使命というやつがな」


 弟子たちのわだかまりは知っている。

 だが、ノーウェルにとっては二人も。テッドたち四人も大切な教え子だ。


 彼らならば、きっと正しい未来を歩んでくれるだろう。

 それは願いにも似た感情だった。


 何の目標も持たず、ただ停滞していたマーシュは前に進み始めたのだ。

 彼は元が空っぽだからこそ、持てる志に限りはなかった。


「……だが。ライナーは少しばかり、多くの物を抱え過ぎだ。あれは一人で抱えきれぬ、重荷よ」

「重荷、ですか?」


 しかし、ライナーは違う。

 彼の許容量がいくら大きくとも、もうじき限界だとノーウェルは思っている。


「考えてもみろ。いきなり王になり。国民数十万の命を抱えて、命運を懸けた大戦に臨んでいるのだ。誰かが寄り添わねばならん」


 彼の国は、仲間を守るための手段として、成り行きで手に入れたものに過ぎない。

 自らが望んで勝ち取ったものではなく。行きがかり上で拾ったものだ。


 頼ることも知らず、気づけば守るものばかりが増えていく。

 それではいずれ潰れるだろう。


「ライナーに伝えろ。お前の人生は何のためにある。何を目指し、どこへ行くのか――」


 彼自身の望みはどこにあるのか。

 重責を背負いながら、何を目指すのか。


 ノーウェルにはそれが分からなかった。


 だから。相談役の最後の役目として、ノーウェルはマーシュに・・・・・遺言を遺す。


「何を為すために生きるのか。いつかその答えを、儂の墓前で語れ。……それが遺言だ」


 抱えた荷物を分ける人間も必要だろう。

 傍で支える人間になれ。

 間接的にそう言われてもいるのだと、マーシュにも分かる。


「ですが師匠、俺とライナーは……」


 しかし、彼らの関係は依然として、良好とは言い難い。

 だからマーシュは戸惑っていたのだが。


「くだらぬ因縁はここに置いていけ。それとも何か。儂の、最期の頼みが聞けぬか」

「…………いえ。分かりました」


 どうせ、いつかは解決しなければいけなかったことだ。

 それならこれもいい機会だろう。

 恩人の前で意地を張っても仕方がない。


 そう決意して、マーシュは頭を下げた。



「先に行きます。師匠」

「うむ。儂も後からゆっくり行くとしよう。……ではな、馬鹿弟子」


 決死隊をまとめ上げ、騎乗して去って行く弟子の姿を見つめながら。

 ノーウェルは両手を広げると、その背中に声援を送る。


「老兵の物語はここまでだ。進め、若人よ! 生きて未来を拓け!」


 言い終わるなり、膝を屈しそうになった。

 やせ我慢で立っていたが、身体の方は既に限界を迎えている。


「ぐっ……ははは。痛たたた……。少し、恰好をつけすぎたか?」


 しかしここで死ぬわけにもいかない。

 ドラゴンゾンビの代わりに、アンデッド化した己が暴れることになれば本末転倒だ。


 死ぬとしても、下山してからだ。


 そう決めた彼は重い足を引きずりながら、南にある本陣に向けて歩き始めた。


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