第六十五話 心のままに(前編)



 誰か生きているかもしれない。

 誰かが、助けてくれるかもしれない。


 あの日、一人で近くの林に逃れて。

 屋敷が燃える光景を見つめていた時には、まだ希望があった。


 ――しかし。そんな淡い期待は、すぐに打ち砕かれた。


 事件から時間が経つほどに、現実を見ざるを得なくなった。




 屋敷を出てからは、どこを歩いたのかも覚えていない。


 持っているのは家宝の懐刀が一本。

 全財産はそれだけだ。

 それだけを抱えて、逃げなければいけなかった。


 両親も、兄も、従兄弟も、祖父も、祖母も。

 皆、死んでしまったのだろう。


 日常も、未来も、幸福も、何もかも。

 一夜にして、持っているもの全てを失った。


 悲しくても、辛くても、苦しくても。どうしたことか涙は流れない。

 かと言って、怒りや憎しみも感じない。


 心が少しずつ麻痺していくのを感じながら、彼女はただ進み続けた。




 生きているのだから、腹は減る。

 着の身着のままで彷徨さまよい続け、気づけば腹の虫が鳴いていた。


 それでもただ、山道を歩き続ける。

 道端の木の実を採って、飢えを凌いだ。


 しかし人間は、木の実だけでは生きていけない。

 ヘビを殺して食べたあたりから。本格的に、生きる希望は失われていった。



「お時間です。私の後に続いてください」


 暗い過去を思い出していれば、今度は憂鬱な未来がやって来る。

 目線を部屋の入口に移せば。

 身分が高そうな文官と、数名の騎士が迎えに来たようだ。


 しかし彼女にとっては。

 彼らの姿が、処刑場に案内する死神にしか見えない。


 これから自分は望まぬ結婚をする。全てを奪った仇と結ばれるのだ。


 人生の末路はこんなものか、とも思うが。

 一方で彼女は、「自分の人生は、嫌なことばかりでもなかった」とも思っていた。


 ゆっくりと歩みを進めながら、彼女は更に回想を続ける。







 人里離れた山小屋で寒さを凌いでいると、暫くして老人が入ってきた。

 山菜採りをしていた、元冒険者だそうだ。


 彼は腹を空かせた少女に。ただの野菜が入った、普通のスープを振舞った。


 何日もまともな食事をしていなかったのだから、どんなに高級な料理よりも有難く思えたし。それが感動するほど美味しかった。


 しかしどうやら、嬉しくても涙は流れないようだ。

 気がつけば、話すこともできなくなっていた。


 老人は目の前の少女が何も話さないところを見て。

 ただ一言。


『一緒に来るか?』


 とだけ聞いた。


 この老人なら自分のことを保護してくれるだろう。

 優しい言葉と、伸ばされた手に。抗いがたい誘惑を感じた。


 しかし追手がいるはずだ。

 彼と一緒にいれば、いずれは。恩を仇で返すことになってしまう。


 暗い気持ちで首を横に振れば。

 彼は「じゃあ、途中まで一緒に行こうか」と言った。




 彼に出会えたのは幸運だったのだろう。ボロボロのドレスを着て山道を歩いている薄汚れた少女など、普通は気味が悪いと思うはず。


 ――目の前にいる騎士のような態度を取るのが普通だ。


「本当に、一言も喋らなかったな」

「……そうだな」


 彼らはまるで動く死人を見るような目をしている。


 これでも化粧はしているし、綺麗な花嫁衣裳も着ているのだが。王宮に来て二か月が経つ頃だ。

 その間一度も口を開かなければ、このような態度を取るのも当然か。


 そう考えながら、再び追想にふける。






 当てがあると言う老人と共に旅をして、どれくらいの月日が経っただろう。


 着いたのは小さな街の、小さな冒険者ギルドだ。

 誰も自分のことを知らない街で、その日から冒険者として生きることになった。


 登録名はもちろん偽名だ。

 冒険者はすねに傷を持つ者も多いから、その辺りはうるさくないぞ。だそうだ。


 冒険者の初歩。いくらかの手ほどきを受けてから、老人と別れた。



 最初の一年くらいは、そのギルドで過ごしただろうか。


 小さな獲物を狩って、小金を貯めて。真っ先にかぶとを買った。

 一年も居れば、その町での生活にも慣れてきた。


 しかし、公爵家の娘が難を逃れたことは既に知れているはずだ。

 野垂れ死にしたと考えてくれればいいが、まだ探しているかもしれない。


 一か所に留まれば、いずれ足が着くだろう。

 そう考えて、流浪の旅へ出ることにした。





 依頼をこなしながら、街から街へと渡り歩き。

 数年が経った頃だ。

 全身の装備が整った頃に、仲間たちと出会ったのだったか。


 振り返れば、そこからは楽しい思い出ばかりだ。

 ――それからの日々は、本当に楽しかった。


『見てくださいなルーシェ! そ、即戦力ですわ!』

『えっと。……だ、大丈夫なの?』


 リリーアがスカウトしてきた時。

 誘った理由は「見た目が強そうだから」と言っていた。

 最初は何の冗談かと思ったが、彼女は本気だった。


 全く喋らないフルプレートアーマーの女を見て、ルーシェはかなり怯えていたのを覚えている。


 パーティへの参加は断ろうかと思っていたが。リリーアの勢いに、半ば強引に押し切られて。

 結局は彼女たちのパーティに加わることになった。


『うおっ!? 随分と気合が入った格好だな……。ま、まあ、よろしく!』


 暫く活動を続けるうちに、仲間が増えた。

 最初はコミュニケーションも難しかったが、徐々に打ち解けてきた。


 全員が没落貴族だというので、自分もそれに合わせたのだが。名前、経歴、過去。全て嘘でも、喋らないのだからボロが出ることもない。


 自分の口から、言葉が失われていて良かった。

 そう思うこともあった。


『うえっ!? え、えっと、中身は女の人だよね?』


 ベアトリーゼなど、最初は野良猫のように警戒していた。

 打ち解けるまでに半年はかかっただろうか。


 このパーティの目標はただ一つ。

 冒険者として名を揚げて、貴族に返り咲くこと。


 千人に一人も成功しないだろう、遥かな道だ。

 最初はただの、夢物語だった。



『だから私たちの名は、蒼い薔薇ですわ』



 存在しない色のバラ。

 誰も見つけたことがない、幻の花。

 ありもしない幻想を追いかける自分たちには、似合いの花だ。


 そう言って、皆が笑っていた。


 元々、つまらない人生だ。

 どうせ死ぬのなら叶わぬ夢を追って、仲間たちと共に散る方が劇的かもしれない。

 そう思い、彼女たちの後を付いて行った。


 怪しい鉄仮面の女を連れて、蒼い薔薇は様々な土地を渡り歩く。


 そして――



『よろしく頼む。では、早速出かけようか』



 最後に加入してきた人は。自分の姿を見ても、一切動じなかった。


 食事の時、寝る時、旅をする時。

 ずっと厳つい鎧姿をしていても、理由に触れてくることさえなかった。


 彼はいつでもどこでも、予想できない動きをする人だった。

 そして。そのうち、彼の行動が気になるようになってきた。


 ――いつしか。次は何をするのだろうと、楽しみにしている自分がいた。



 そんな折。ベアトリーゼが失恋した時には、酷く焦った。

 これで友情が壊れて、離れ離れになるかもしれない。


 そんなのは嫌だ。


 何とかしようと。一睡もせずに、どうにかしようと考え続けて。

 やがて、全てを解決する妙案を思いついた。


 全部くっ付けてしまえばいい。

 彼と結ばれて横に居るだけで、仲間たちともずっと一緒にいられる。



 ただの興味と、友情を守るため。

 結婚を申し出た理由はそれくらいだ。


 しかし、結婚式を挙げようと言われた時。不意に、少しだけ胸が高鳴った。


 あれは恋だったのだろうか。そうだとすれば初恋だ。


 自分の中にまだ、人間らしい感情が残っていたのかと少しだけ驚いたものだ。

 と、彼女は内心で思う。





 冒険者として過ごした時間は、満ち足りていた。

 これから先の自分の人生。その全てを捧げても、後悔はないと思えるほどに。


 きっと自分の人生は彼女たちと歩むためにあった。


「……だから」


 だから、この選択にも悔いはない。

 彼女は自分の過去をそう締めくくり、重い扉の前に立つ。


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