廻る世界の考察と空の穴
「なあ、なぜ歌を唄うんだ?」
「歌えるからさ」
常々思っていたことを尋ねて、返ってきた答えは予想以上にあっさりとしたものだった。
朝霧に覆われた水平線へ、出航したばかりの帆船が消えていく。
星と白月を残した薄明かりの空を背景に、灯台の僅かな光を頼って、船が波間を縫っていった。漣と潮が霧に混じって海岸沿いまで漂っている。それを横目に追いながら、ユキルは眉根に皺を刻んだ。
「じゃあ、どうして、いつも同じ歌ばかりなんだ?」
問い方が悪かったのだろうか。ユキルは質問の趣旨を少しだけ変えてみる。
問われた少年は防波堤の上に座り、夜明けの海を眺めていた。海岸線に沿ってなだらかに続く石造りの防波堤の中でも、一層高い場所にいるため、ユキルは否応なしに、上目で少年を見ることになった。
少年の名はホトリ。
歳はユキルと同じ十七歳。履き古した革のショートブーツ、黒のズボンとシャツはユキルが着る学校の制服と同じ。ただ、少し擦れて色あせたズボンはユキルがはきなれたものとは違って見えた。その上にくすんだ灰緑の長い裾のジャケット、頭には目出し帽。ジャケットと揃えたのだろうか、帽子は淡い灰緑色で鍔の縁にしゃれた鎖と鳥をモチーフにした金細工が留めてある。
地味な色合いの中で金細工だけが煌びやかなのが印象的だった。爪先から頭の天辺まで、文句の言えないほどの、バランスの取れた服装は、白い肌とうす茶色の髪とよく似合っていた。
鍔と前髪に隠れた瞳は鋭く、悪戯気な海の色をしている。しかし、心はここにあらずと言った様子で、長い裾を潮風に棚引かせているその様は彼を大人っぽく見せる。それらすべてが、ユキルには不思議な存在に映った。
ホトリはユキルの質問にすぐには答えようとしなかった。じれったくも辛抱強く待っていたユキルが限界に達したのは、先刻の帆船が見えなくなってしまう頃だった。
自分の話を聞いていなかったのだろうか。もどかしく思い、ユキルが再度口を開こうとすると、
「この歌が好きだから」
返ってきた答えは単純なものだった。
タイミングがいいのか、悪いのか。今の今まで考えていたようでもある。前の質問を忘れてしまいそうだ。気付かれないように、小さくため息をつく。
ホトリの風吹くまま気ままと言わんばかりのテンポは今に始まったことでないので、ユキルは会話を続けた。いつもであったなら、そのまま聞き流して、自分勝手に終わりにした所だが、今日ばかりはそうは行かない。
毎朝、彼がこの街の外れの防波堤に来ては、同じ歌を口ずさみ、海を眺める理由を、ユキルは知らない。今日は、今日こそは知りたく思い、意を決し、このスローテンポに付き合うと決めたのだ。
「ふーん。タイトルは何て言うんだ?」
「さあ」
「さあって………。知らないで唄ってるのか?」
ユキルがこの道を朝の通学の抜け道コースに使うようになってから数年。ここを通るたびに、ホトリは同じ場所に同じ方角を向いて、歌を唄っていた。
雨や風の日も気にせずいることもあれば、いない時もあり、実に気まぐれだが、居場所はいつも同じのこの堤防だ。
最初は遅刻の走り抜け様に聞いていた歌声も、最近は気に入ってしまい、未だ名しか知らぬ、初対面ではない少年の元で足を止めようになった。早起きするようにもなり、何度か聞いていると、随分と年季が入った歌だと感じた。そのため、ユキルはてっきり誰かから教わるか、酒場のような場所で聞いた曲だと思っていたのだ。
「ああ。でも、知ってる」
「はあ?」
思わず、素っ頓狂な声を上げてしまった。
意味が分からない。
一言目は知らないと言ったのに、次には知っていると言うのは、どういう意味があるのか。
(でもってなんだよ。でもって……)
胸中でユキルは二度目のため息をついた。態度とは裏腹に心は歌と共に彼自身に興味を引かれているようで、ユキルはホトリの言葉に耳を傾けた。
最初は奇異のものを見るように横目で盗み見るようにしていたのだが、気が付けば防波堤に座り、隣に立つ彼の整った顔を見上げていた。首が疲れるが構わない。
「あんただって知ってるだろ?」
「知らねえよ……」
彼が唄う歌は優しく穏やか、時に激しく強く、耳に心地良く、懐かしかった。それに反して、普段の口調はぶっきらぼうを極めていた。ユキルも随分と口の悪いから、人のことは言えない。ただ、最初は歌声とは幾分と違うイメージに愕然としたのを今でも覚えていた。しかし、声色は変わらず、聞き取りやすい。
「いーや、知ってる。いつも聞いてるじゃないか。ここで」
にやり。と、実に楽しげにホトリは笑う。
「確かに、いつも俺はお前の歌を聞いてる。けど、それじゃあ、答えにならねえよ」
実は歌詞は最初から最後まで覚えてしまっていた。その日の気分で一部分ずつが変わるものの、大筋はほぼ一緒だと言うことも知っている。
(絶対言うもんか)
何度か日常会話を交わす内に分かったことは、ホトリは歌以外はユキルの学校の友人と同じだった。時にからかい、おどけ、皮肉を言う。故に、そんなことを言うものなら絶対に馬鹿にされるに決まっている。
「オレの歌じゃない。いつも聞いてるじゃないか。気付いてないのか?」
ホトリは呆れた様子でユキルを一瞥した。
「鈍感だなあ」
結局馬鹿にされてしまった。胸中に靄がかかったような気分になりつつも、含んだ物言いにユキルは反発できなかった。
ユキルの気持ちなぞ、気が付いた様子もなく、ホトリは空を見上げていた。
いつの間にか夜が明けた空は、蒼く高く澄み渡っていた。海鳥が天高く舞い上がり、風に揺られている。
その様子に既視感を覚えた。
最近もこれと似た景色を見てはいないか?
真っ白な初夏の雲に、澄んだ空気、朝風は眠気を吹っ飛ばしてくれるし、毎日同じ事を繰り返す鬱屈した一日を少しだけ前向きにもさせてくれた。
(空ってこんなに高かったか?こんなに蒼かったか?まるで)
「空にも海が在るみたいだ」
「カモメが空の海を泳いでる?」
ユキルの気が付けば口から零れていた感想にホトリは面白がるように問うてきた。その答えの合致にユキルは心の奥底で込み上がる何かを感じた。それを嬉しいと感じる間もなく、次の言葉を紡ぐ。
「じゃあ、あっちのちぎれ雲は細波だ。西の消えかけた星は灯台」
「消えかけた灯台じゃあ、路頭に迷っちまうぞ?オレは太陽の方が良いなあ」
「そうか?太陽だと、眩しすぎるだろ」
「むむむ、それもそうだ。うーん。何が一番良いか」
胡座を掻いて座り直し、ホトリは眉根を寄せた。どうやら、遊び言葉を真剣に考えているようだった。そんな時の彼の口調は妙に年寄りじみていて、ユキルは思わず吹き出しそうになった。
「なんでも、いいじゃないか?俺は星が良い。お前は太陽が良い。それで」
「それもそうだなあ……。じゃあ月はなんだ?」
「月?そうだな…」
消えかけの灯台と共に月を二人は見た。
白く丸い月は西の空にうっすらとしか、もう見えてはいなかった。それはまるで
『出口みたいだ』
声が空にはもる。
月は薄水色の空に区切るようにある。優しくも、地上には届かない儚い光をはなっている。まるで、何処か、別の世界へと続く入口にも出口にもなるようだった。そして、そこには地上からは決してたどり着けない。
意図せず満場一致した答えにユキルは思わず奥微笑んだ。ホトリも小さく口の端を上げている。薄茶色の瞳は帽子の影の下で嬉しげに揺れていた。それは街の路地から吹き降りる風と前髪にまかれて、すぐに見えなくなってしまった。
透明で、どこまでもまっすぐな笑み。そして、瞳だった。いつものぶっきらぼうで不可思議な、人を見放した笑顔ではない。初めて共感ができたせいなのだろうか、彼がいつも海を眺める気持ちが少しだけ、ほんの少しだけ、ユキルは分かった気がした。
実際、共感と同意をした言葉の数は少ない。だが、一致しない言葉の中に同じ答えを見出したのは間違いない。常々思っていた疑問の渦の一端が氷塊した気がした。明日、またここに来て、ホトリを同じように見上げる時は、今日とは違う気持ちで見られるかも知れない。
(今夜はぐっすり眠られそうだ)
そして、遅刻をする。そんな毎日の繰り返し。でも、時々退屈でたまらない時もあるが、時々愛おしてたまらない時もあり、手放すことができない。
「なあ、ユキル。今度はオレから質問」
「ん? なんだ? なんでも訊けよ! 俺がちょいちょいっと、答えちゃうぜ」
昂揚した気持ちを弾みにして、軽くユキルは応えた。あれだけ不可思議な存在であったはずのホトリと一端の共有を得ることができたのだから、今なら何でも答えられそうだ。そんな気がした。
カモメが一鳴きする間を持って、ホトリはゆっくりと口を開いた。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「どーぞ!」
そして、期待は同じ人間によって裏切られる。
「じゃあ、波の音は?」
「へ?」
それこそ唐突に。気紛れに。
ユキルは、また素っ頓狂な声を上げるはめとなった。
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