第一章 風の唄「エルフィン・バラッド」その1

 エルフの血を引く者たちにより建国された温暖なカンパーナ王国。この国の宝はイズンの森の奥に封印されている食べると30年年を取らなくなる「金の鈴」こと黄金のリンゴと、代々王家の者が継ぐ歌姫であった。

 その歌姫の住まいであるヴァージニア宮の屋上にて兵士が交代で見張りを行っていた。にぎやかな城下町ばかりに目が向きがちになり、そよ風の音は聞こえていても歌姫の部屋から彼女がいなくなったことに気付かなかった。

 歌姫の歌の修練の為の音楽室にも、大量のドレスが保管されている衣装室にも、ごく親しい人を招いて歌を披露する客間サロンにもいなかった。しかし攫われたわけではない。自ら抜け出したのである。

 カンパーナの王族と彼らの許しを得た人間しか入れないイズンの森の野原に、14歳の歌姫イザベルはいた。太陽のように輝く金髪を長い耳にかけ、そばを流れる小川のように澄んだ青い目は手元を熱心に見つめていた。そこへ青く小さなカンパーナの国鳥「シジューク」が飛んできた。フード付きマントを羽織った彼女の肩に止まると、チュンと大きな一声を上げた。

「チョピン、ビックリしたじゃないの!」

 鈴を転がしたような声が、小さな友達をたしなめた。チョピンが慌てたように短くさえずるのを聞くやいなや、イザベルは手の中の物を懐に仕舞った。

「大変、早く帰らなきゃ雷が落ちるわ!」

 草のかけらと汁の付いた白い手を小川ですすぐと、イザベルはスカートをたくし上げて駆け出した。



「イザベル姫、いらっしゃいますか?」

イザベルの教育係のレオナルドは彼女の部屋をノックしたが、返事はなかった。

「姫、勉強のお時間です!」

 さっきより強めにドアを叩けば、「もう少しお待ち下さい!」と聞き慣れた声が返ってきた。これはきっと先程まで遊んでいてその後片付けをしているな、と彼は察した。

「もうよろしいです!」

「では失礼しますよ」

 やっと許可を得たレオナルドが入室すると、きちんと身なりを整えたイザベルが机の前に腰かけていた。

「一体何をなさっていたのですか?」

「宿題を終わらせていたところですの!」

 得意顔でイザベルはノートを開いて見せた。それを受け取ってレオナルドはパラパラとめくり、慌てて終わらせたにしては丁寧な文字を、眼鏡越しに眺めた。その間の彼の沈黙を感心したことによるものだとイザベルは思って安心していた。

「確かに出来ていますね。ところで姫様、そのお召し物の泥はいかがなさったのですか?」

「えっ」

 イザベルは咄嗟にドレスの裾を確かめた。あの森からここに戻ってくるまでたくし上げて走ってきたのだし、第一ここ最近晴れの日が続いていたので水たまりを踏んでくるはずもなかった。

「変だわ、帰る途中に泥のある場所なんて」

 うっかり呟いたその言葉がレオナルドの耳に入り、彼の眉がピクリと動いた。

「ほぉ、つまり今まで外出されていたのですね」

 声に怒気を含ませて眼鏡を押し上げたレオナルドを見たイザベルは、カマをかけられたのだと悟った。

「ち、違うんです!遊びに行っていた訳では」

「言い訳しないで頂けますか?」

 レオナルドの眼鏡が光る。これは彼お得意の雷魔法が炸裂する前触れである。仕方なくイザベルは懐に仕舞っていた白い花輪を彼に見せた。

「あの、これを作っていたのです!リカルドへのお見舞いに持っていこうと思いまして」

 リカルドは彼女の弟にして現国王フェルディナンドの第一王子である。彼は気管支が弱いので季節の変わり目に風邪をひきがちな少年で、昨日から熱が引かないのである。

「チレリアの花で編んだのですか。なるほど、先週お教えしたことを覚えてらしたのですね」

 チレリアというカンパーナにしか咲かないとされる冷たい花は熱病に効くとされ、輪っか状にすることで氷の魔力が巡り、半永久的に咲き続けるという性質を持つ。

「ベル様、リカルド様の事を思ってそこまで……ですが」

 イザベルの視界が明滅した。レオナルドの雷が落ちたのである。驚いて後ずさるもさらに雷が落ちて来て、ついに彼女は窓際まで追い詰められてしまった。

「カーテンが無くなってる時点でバレバレなんですよ!もう少し王族としての自覚をお持ちください!何かあっては国王陛下に合わせる顔が」

 まくしたてるレオナルドに手を引かれながら、イザベルは梯子代わりにカーテンが垂らされた窓を見た。焦るあまりにそこまで気が回らなかったのだ。

「ルーリエ王国の方々との会食まであと一週間でしょう?」

 座らされたイザベルの眼前に、ルーリエ語の応用問題集やら日常会話集やらマナー事典やらがどっさりと置かれた。

「それまでにルーリエ語を完璧に話せるようになって頂きますからね!」



「リカルド、入ってもいい?」

 夜中八時、ベッドで読書中のリカルドの耳にノックの音が響いた。疲れているのをごまかすかのように張り上げたその声は、彼が大好きな人の物だった。

「姉様、入ってきて!」

 何度も読んだ童話集にしおりを挟みつつ、リカルドは弾んだ声でイザベルを招いた。入室した彼女の小脇に、ルーリエの民話集が挟まれていた。イザベルは夕食までレオナルドに付きっ切りで勉強させられてヘトヘトだったが、弟の為にその身を引き摺って来たのである。

「お加減はどう?」

 イザベルはメイドが代わりに渡してくれたチレリアの花輪を彼の額からずらして赤毛をかき分け、手を当ててみた。そこはすっかり冷たくなっていた。

「うん、姉様がくれた花のおかげでだいぶマシになったよ。それにね」

 リカルドはベッドの傍にある小さな卓を示した。盆の上に陶器の深皿とガラスの器があった。

「レオナルドが薬草入りのパン粥を用意してくれてね、のど通りが良くておいしかったよ」

「まぁレオナルドが?」

 宮廷仕えする前の彼は医者を志願しており、カンパーナ国立魔術高等学校で薬草学や医療魔術を習得していた。雷魔法と氷魔法も医術に応用できるので学んだとのことだった。

「夕食それだけでよかった?」

 10歳なら食べ盛りだが、リカルドは食が細い上に気管支に物が引っかかりやすい。だから食事は別にしているが、イザベルは父母と豪勢な食卓を囲むことに後ろめたさを感じて食事に関する話題は避けていた。

「トマトのシャーベットまで付いててね、野菜なのにあんなに甘いスイーツになるんだね!」

 イザベルは嬉しそうに話す弟を見て安堵した。

「そういえばあなたに頼まれていた本、持ってきたわ」

 姉から「ルーリエの英雄と妖精たちの民話集」を受け取って、リカルドは大喜びした。二人とも教訓話よりも妖精や怪物の登場するおとぎ話の方が好きなのだ。

 ふとイザベルはリカルドが先程まで読んでいた童話集に目を向けた。

「カンパーナの建国伝説……だいぶ傷んでしまったけど、こんなに読み込まれるなら本も嬉しいわね」

「うん!アルトゥロの話大好きなんだ!」

 リカルドは「カンパーナの建国伝説」を手に取ってしおりより前のページを開いた。

「ぼくも勇者アルトゥロみたいに冒険できたらなぁ!」

 そのページは鎧兜を付けて剣を構えたアルトゥロの挿絵が載せられたページだった。彼こそ天空神ティエの導きの下、500年前に魔王を倒した英雄にしてカンパーナの初代国王であった。彼に協力した魔女マリーンは人間とエルフの両方の血を引く娘で、戦いが終わった後に彼の妃となった。その為カンパーナ王家の者たちはエルフの血が流れているので聴覚が非常に優れており、時折イザベルのような長い耳の者が生まれるのである。

 マリーンは通常の魔術師とは異なった詠唱の仕方で魔法を使い、それがカンパーナの伝統音楽の源流となった。カンパーナ王家の娘は5歳から声楽を学び、10歳を迎えてから成人するまで「歌姫」の任に就くのが習わしだった。「歌姫」は国家記念日や王家の冠婚葬祭においてマリーンが生み出した平和を祈る歌を人々の前で歌う「歌唱の儀ライブ」を行うのが義務である。王家に姫君が不在の場合でも「歌姫」の代理となれるようにカンパーナの貴族の娘たちは歌を習うことが義務付けられている。彼女たちはカンパーナ王国の儀式における巫女であり人々から尊敬を集め「偶像アイドル」と呼ばれ、「歌唱の儀ライブ」においてバックコーラスの役目を担っている。カンパーナ王国が属している「アウレリア大陸」で「歌い手」「詩人」を「アイドル」と呼ぶようになった所以である。

 マリーンは自身が編み出した魔法が悪用されないようにアウレリア大陸中のどこかにそれらの魔導書を封印し、それらを発動させる時に使ったとされる「銀の杖」は今もなお、ここカンパーナ本城の地下宝物庫に保管されている。

「ところでお姉様、今度ルーリエ王国の人たちと会食するんでしょ?カンパーナ王国の外に行くの?」

 幼いリカルドは参加しない手はずとなっていた。

「いいえ、オーブレー公爵のお屋敷をお借りするの。お料理はどんなのが出るのか聞かされてないわ」

「ルーリエの人たちと喋るの、緊張しない?」

「うーん、ルーリエ語はカンパーナとそんなに変わらないから大丈夫だと思うけど。なのにレオナルドったらひどいのよ!ルーリエのマナーの他にことわざまで勉強させて」

 イザベルはレオナルドの鞭を構える仕草を真似して見せた。貴族の子女でも教育係に鞭打たれるのは珍しい事ではないが、王族を傷付けるわけにはいかない。ただし聴覚が良すぎるイザベルの場合は壁を打つ音で脅すだけでも十分効果があった。

「明日も剣の稽古があるのに大変だわ!」

 イザベルは音楽の勉強の方がずっと好きだった。あいにく明日は午前中母の師匠でもあった爺やとの剣術の練習稽古で、午後に厳しいレオナルドの授業があるのだ。



「父上、ただいま戻りました」

「ふむ、ご苦労」

 アシュトン財務大臣はレオナルドが書斎に入ってくるなり執務机から立ち上がった。息子の髪色と同じラベンダー色の豊かな口髭と太鼓腹を揺らして末息子に歩み寄ると、自分より背が高い彼の肩を叩いた。

「姫様の様子はどうかね?」

「また勝手に外出されたのですよ。授業が始まる前に無事お戻りになられたので良かったんですけどね」

「そりゃよかった。いなくなられては困るのだ。何せお前の大事な婿入り先だからな」

 ニヤリと笑った父親を、レオナルドは冷ややかに見下ろした。

 病弱なリカルド王子よりも姉のイザベル姫に王位を継がせたいと思う者は多い。アシュトン財務大臣は表向きイザベル姫を弟君が成人するまでの中継ぎとすべしと主張していたが、それは思惑あってのことだった。

 イザベル姫に婿を取らせるべきか嫁がせるべきかは以前から何度も論争されてきた。王族の婚姻はカンパーナ王家の将来に関わるだけでなく、貴族たちにとっての出世の足掛かりでもあった。イザベル姫に近付く貴族や子息は多く、アシュトン財務大臣も末息子が国立魔術高等学校での学業を修了するなり教育係として姫の元に送り込んだのだった。レオナルドは医療技術が発達したプロイス王国の大学に推薦入学するはずだったのだが、卒業間際に内戦が勃発して頓挫したのである。

 アシュトン家は元をたどれば王家の分家筋で直系なので、姫の結婚相手として息子は申し分ないだろうと財務大臣は考えていた。

「姫様はお前を信用されているか?」

「どうでしょう。まだ遊びたいお年頃であらせられるので、僕という厳しい教師は鬱陶しいんじゃないですかね?」

 レオナルドはおてんばだが聡明なイザベル姫自身は嫌いではないものの、父の野望の為の教育係でいるのは癪だった。

「ううむ、それでは困るのだが」

「ですがご安心ください。姫様はリカルド様を大層心配しておいでです。幸い僕は医学の知識が少しばかり心得があるので」

 アシュトン財務大臣は息子が医者になるのに反対していたが、彼が勉強してきたことがこんな所で役に立つとは思わなかった。

「ほぉ成程、最近殿下の元にも行くようになったのはそれでか」

 息子を信頼しきっているアシュトン財務大臣は安堵の笑みを浮かべた。



 ルーリエ王国の外交官との会食当日、ヴァージニア宮に国王夫妻の乗った馬車が来た。公務用ドレスに着替えたばかりのイザベルが乗ろうとした所、腹の底に響くような低い声に呼び止められた。

「お出かけですか?王女殿下」

出入り口から少し離れた所に、彼女の倍あるのではないかと思える程背の高く、波打つ深緑色の髪に漆黒の鎧姿の騎士が琥珀色の鋭い眼光を投げかけていた。

「デクスター将軍」

カルロス・デクスターは20年以上もカンパーナ王家に仕えてきた騎士だった。青年期に「ステファニーの悪夢」と後に国内で呼ばれる大規模な戦争で活躍した英雄で、人々から畏怖と尊敬を集めていた。どこの生まれなのかは誰にも知られておらず、叩き上げで将軍という地位にまで登りつめた彼を快く思わない者は多い。イザベルもデクスター将軍が好きではないが、理由は別にあった。青白い肌にこけた頬、蛇のような目は怖気立たせるものがあった。若く精悍だった頃の肖像画を見たことはあるが、粘つくような眼差しだけは変わらなかった。親子ほど年の離れたイザベルを見る時の彼の目付きはいつも、蛙の身動きを奪う飢えた獣にも似た情熱がこもっていた。リカルドは「きっと蛇女メデューサとの合いの子なんだよ」なんて本人のいない所で茶化していた。

「どちらに行かれるので?」

「ルーリエの方々との会食に参りますの。先方をお待たせしては申し訳ないわ」

 ただでさえ緊張する場に出るというのに、デクスター将軍の眼差しは体どころか心まで凍りつかせた。

「ルーリエと、ですか。無事に済むとよいですね」

 口元に薄ら笑いを浮かべる彼から逃げるように、イザベルは馬車に転がり込んだ。

「リカルドの調子はいかがです?あの子もルーリエに興味をお持ちでしたわ」

 母にぴったり体を寄せてイザベルは腰かけた。リカルドは本城に残されている。

「今朝なんともなかったわ。ただ知らない国の人たちと会わせるのはまだ早いもの」

 二人の母にして現カンパーナ王妃セシリャは自分と同じ色の娘の前髪を直しつつ言った。彼女の曾祖母はカンパーナ王家から伯爵家に嫁いできた元歌姫であるものの、セシリャ自身は女にしては大柄な上にエルフの能力は持っていなかった。しかし曾祖母から美しい金髪と碧い眼は受け継いでいた。

「それに今日は先方がどうしてもお前を一目見たいと言ってきた。幼子がいては落ち着かぬであろう」

 父王フェルディナンドはいずれあやつも公務に出られるようになるとよいが、と付け加えた。彼は今年で42歳を迎えるとは思えない程若々しく、初代国王アルトゥロ由来の赤い髪をたなびかせていた。

「折角の食事会なのに仲間外れにしてしまうような気がしてしまいます」

「気持ちは分かるわ、ベル。ただあの子が発作を起こすかもしれないのだから、客人にご迷惑をおかけするわけにはいかないのよ。身内同士の集まりとは違うのだから」

 貴女も一国の王女らしく恥ずかしくない振る舞いをするようにという母の忠告を聞きながら、イザベルは会食が始まらない内からリカルドにどんな土産話をしようか考え始めた。



「ようこそお越しくださいました。国王王妃両陛下ならびにイザベル王女殿下」

 オーブレー公爵は恭しくリカルドを除いた国王一家にお辞儀した。年齢はフェルディナンド王と大して変わらないはずだが、頭髪が後退しつつある。

「客人はもう来られているか?」

「ははっ、どうぞこちらへ」

 公爵は彼らを応接間に招いた。ルーリエ王国からの二人の使者である外交官と第一王子は同時に席を立って会釈した。

「ルーリエ王国第一王子アルベルト・マーシュ・ルーリエと申します。お招きいただき光栄です」

 アルベルト王子はイザベルより4つ上だと聞いているが、18歳よりもっと年上に見えるほど大人びていた。背は彼女の父親と大差なく、金の髪が窓からの光を浴びて輝き、彼女に言い寄る貴族の御曹司と比べると顔立ちも勇ましかった。

「お初にお目にかかる、イザベル王女殿下」

 アルベルトは彼女の前で身をかがめた。凛々しい眉の下の若葉色の切れ長の目が間近にあり、デクスター将軍と目が合った時のように心臓が跳ね上がった。

「こちらこそお会いできて嬉しいです、アルベルト様」

やや遅れてイザベルは挨拶を返した。カンパーナとルーリエの挨拶の言葉と作法は幸いにも同じだった。



「アラバーキ王国の方へ最近ドワーフたちが流れているとお聞きしますわ」

「アラバーキといえばはるか東の島国であったか。ごく限られた国の物しか入国できず、我々アウレリア大陸とは異なる文化を持っていると噂の」

「かの国の者たちは小柄な人間が多いので、ドワーフと似た者同士気が合うのでしょう」

 ドワーフはかつて鉱山労働の為に奴隷として使われていた種族である。採掘や土木作業の他に細工が得意だが頑固なものが多く、人間の羨望の的であるエルフを嫌っている。カンパーナもルーリエも彼らを奴隷階級から解放してから大して時間は経っていない。先程から両親と外交官らはアラバーキ王国とドワーフたちの動向について語り合っていた。

 イザベルはアラバーキの人間を見たことがなくドワーフも絵本に載せられている姿しか知らないので、彼らについて尋ねたかったがとても話に入れる雰囲気ではなかった。アラバーキにしかないとされる技術や「ニンジャ」という未知なる種族の伝え聞いた脅威について語り合っていた。アラバーキの者たちは魔物を操る術に通じているという噂から国内の魔物の動向について話題が移っていた。

「ところでイザベル姫」

「は、はいっ」

 アルベルトに唐突に話しかけられてイザベルはフォークとナイフを落としそうになり、テーブルに着いてしまう直前に持ち直した。

「先程から食事の手を止められているようだが」

 今イザベルの眼前に置かれているのは彼女の苦手な魚料理である。獣の肉と違って小骨が入っていることがあって、除けるのが面倒なのだ。

「まさか毒が入れられる所でもご覧になられたのかな?」

アルベルトは笑顔で言い放ったが、彼以外のその場にいた全員が驚いた。客人たちと相席していて且つ料理の手配をした公爵に至っては青ざめていた。

「そんな、私めのシェフに限ってまさか!」

「王子殿下、ご冗談が過ぎますぞ!」

 ルーリエの外交官までもがアルベルトをたしなめた。

「ベル、本当なの?」

 彼女が魚嫌いなのを知っている母までもが緊張した面持ちで問いかけた。応接間のパニックを収める為にも、イザベルは渋々一切れ口にした。

「とても、柔らかくておいしいです。良いシェフを雇ってらっしゃいますのね」

 イザベルが公爵に向かって言うと、応接間中の者たちは安堵した。

「こんなにおいしい物を頂けるのなら、リカルドも同席できればよかったのに」

「貴殿の弟君と聞いているが」

「まだ10歳なんです」

「ならこういった場は幼子にとっては緊張するだろう」

 それを聞くなりイザベルは、アルベルトが彼女を会話の輪に入れられるようにワザとあのようなことを言ったのだと悟った。

「公爵、少しよろしいか?」

「はい?」

 張りつめた空気から解放された所でアルベルトに話しかけられたオーブレー公爵の返事は上ずっていた。

「こちらに参る途中に少しだけだが貴殿の庭を拝見させてもらった。見事な薔薇が見えたので、よければじっくり観察させて頂きたいのだが」

「えぇ、どうぞどうぞ!」

 公爵はすっかり機嫌をよくしていた。

「イザベル王女殿下もいかがかな?」

「えぇ、ご一緒させていただきますわ」

 公爵の面目の為にイザベルは急いで魚を平らげようとしていた。

「デザートも楽しみにさせて頂こう、オーブレー公爵」



 オーブレー公爵邸自慢の広大な庭を、イザベルとアルベルトは並んで歩いていた。

「少し量が多かったのではないか、イザベル姫」

「いえ、食後の運動をさせて頂くのだから平気ですわ」

 デザートは苺のタルトだった。イザベルはほぼ満腹だったにもかかわらず大好物だったので完食してしまった。

「姫、この花の名はご存じか?」

二人はいくつもの鈴が垂れ下がっているような白い花の前にかがんだ。

リリオ・デル・バリエスズランですね。」

「ムゲットに似ていると思ったが……この特徴的な形は確かにムゲットだ」

 イザベルはレオナルドから教わったことを思い出した。

「もしかして、カンパーナとルーリエでは呼び方が違うのではないでしょうか。私わたくしの教育係がルーリエのマナーどころか食器や花の呼び方まで教えてくれたのですよ」

 まさか10歳上のスパルタ教師に感謝する日が来ようとは、イザベルは思ってもなかった。

「なるほど」

「あ、もう一つ教えてくれたことがありまして」

 イザベルがそう言ったところで風が吹いて、二人の目の前の花々がシャラランと鳴った。

「今の音は、確かにこの花からか?」

 アルベルトは辺りを見回した後、スズランに視線を戻した。

「種類は一緒でも、揺れて鈴の音を出すのはカンパーナにしかないとも聞かされました」

「信じられない。カンパーナの花は音が鳴るのか」

「もう一度お聞かせしましょうか」

 イザベルはスズランにそぉっと息を吹きかけて鳴らして見せた。微風だったので今度はチリリンと小さかった。

「お気に召されました?」

「あぁ、心地よい音色だ。ルーリエとカンパーナは気候も言葉も近いとは思っていたが、面白いものを見せて貰ったよ」

 ルーリエはカンパーナの南西に位置する上に、どちらも海に面している。

「ここはルーリエよりずっと暖かく、緑が多いように感じられる」

「カンパーナに来られるのは初めてですか?私この国より外に出たことがありませんの」

 アルベルトは立ち上がり、ひときわ高い赤い薔薇の植え込みへ歩み寄った。

「そういえば薔薇も国どころか場所によっては咲き方が違うと聞く。もし我が国に来ることがあるのならお見せしようか」

「はい、喜んで!」

 イザベルはアルベルトがいる樹の隣にあるピンク色の薔薇の前に来た。

「そう言えば先程の花の名前で思い出したのですが、人の名前も国によって表記どころか発音も違うと聞いたことがあります。“アルベルト”はカンパーナにもある名前ですけれど」

「“イザベル”という名は我が国の“エリザベッタ”に相当するというのは存じている。けれど私は食事の席で母君が“ベル”と呼ばれるのを聞いて、よい響きだと思ったよ」

「ならアルベルト様も私の事をベルとお呼びください」

「私の名前にも“ベル”が入っているな」

 二人は笑い合った。

「そうだわ!私の誕生日は先々月過ぎてしまったのですけど、来月父の誕生日ですの。よろしければ記念式典にお越し頂けないかしら?私も歌姫として歌唱の儀ライブに参加しますの」

「是非そうさせて頂こう。ベルの歌を楽しみにしているよ」

 しかしこの約束が果たせなくなるとは、この時二人は知る由もなかった。


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