死の恐怖
うっすらと覚えてはいた。連日しつこいくらいに流れるソルニウス・オンラインのCMを。
鮮やかな映像で流れるのは、剣を持った人間と、巨大な竜の姿。その映像を見て、自分でも意識してないくらいにぼんやりと思った事が「戦うゲームなんだな……」という感想だった。
戦うゲーム——つまり、それをプレイする私達プレイヤーは、あの映像のように人ならざる化け物と相対す事になる。
——それがすっかり頭から抜けていた。
突如、私の前に現れた人ならざる緑の鬼の化け物。その恐ろしい姿は、普段の私が見慣れた映像越しでは無く、実際に質量を持って確かに私の目の前に存在している。
一瞬止まった心臓の鼓動が、今度は激しく鳴り響く。見たことも無い、知らない化け物のする事などは想像できない。そのぎらりと光る錆び付いた剣が視界に入るたび、恐らく無事で済まされないという直感が、私の恐怖心を加速させる。
「オマエ、ヒトリカ…?」
黄色い眼光で睨みつけながら、私に尋ねてくる。
その問いに答える心の余裕を持ち合わせていない私は、体を硬直させたまま口をパクパクと開く。相変わらず鳴りやまない心臓の鼓動とは裏腹に、身体は全く動いてはくれない。
緑の化け物は、私の周囲に人がいないかを確認するように、周りを一瞥した後、ニヤリとその武骨な顔を歪ませた。
その瞬間、その緑の巨躯から伸びる手のひらで、私の身体を乱暴に捉える。
「ひぃ!」
やっとの思いで発せられた私の声は、あまりに情けない悲鳴だった。
そのまま高々と、私の身体を軽々しく持ち上げた緑の化け物は、黄色い瞳をこれでもかと見開き、その溜まっていたかのような感情を、全て私にぶちまけるかのように叫んだ。
「ニンゲンニ、フクシュウヲ!!」
その瞬間、視界がぐるんと回転し、身体が情けなくテントの外へ放り出される。何が起こったか理解できないまま、私の身体は砂利だらけの地面に叩きつけられる。
全身に息が止まる程の衝撃が走り、視界のHPのバーが二割ほど削れている事に気づく。
震えが止まらない全身が告げている。このままじゃ私は確実に——殺される。
「きゃああああ!!」
心の器からあふれ出た恐怖心が、叫びとなって現れる。砂利に足を取られ、何度も転びかけながら立ち上がった私は、その場から逃げ出す為に走り出す。
しかし、行く手には先ほどのより二回りほど小さい緑色の化け物が、何体もテントの周りを囲んでいる。
「仲間……!?」
つい先ほどまでは、その影の一片すら見せていなかったはずの化け物の集団。その様子を見るなり、私の脳裏に浮かぶのは「もう逃げられない」という絶望だけだった。
私の様子が余程滑稽だったのか、その緑色の化け物達は腹を抱えて「ケッケッケ」と珍妙な笑い声をあげている。
半ばやけくそになり、僅かな隙間を目指して走り出すが、化け物が持つ剣の切っ先を喉元に向けられた私は、完全にひるんでしまい、情けなくその場に尻もちをつく。
「オマエ、ヨワイニンゲン!」
私へ向けた侮蔑を吐き散らした化け物達は、更にやかましく嘲笑する。これ程までに自分の恐怖心を煽る化け物達がいる世界だとは、数分前の私は想像もしてなかった。
私がこの状況を打破する術は残されていない。玲華の言う事が正しければ、ゲームを中断しようにも、3日経つまではこの悪夢から目覚めることはできないのだから。
後悔の念の表れか、それともこの状況による諦めか、自分でも良くわからないまま、瞳をぎゅっと瞑る。
——ゲーム?
その単語が脳裏に過った瞬間に、私は目を開けてはっと顔をあげる。
つい先刻にも疑問を抱いたこの世界の死という概念——それが示すものは、一体何なのかが分からないままだった。
少し、頭の中が冷静になっていくのを感じる。
このままでは間違いなく、私はこの化け物達が掲げている人間の復讐の元に殺されてしまうのは明白な事実だ。なれば、その先の……夢想現実による死の先には、一体何が待ち受けているのだろうか。残念ながら、その肝心な説明が玲華の口からされた記憶は無い。
そして、もう一つ、私には根本的な部分で分からない事がある。それは、何を持ってこの世界の死という事象が遂げられるという事だ。
——もしかして、死ぬ事が無いんじゃ。
それならば、玲華が死について説明が無かったことも頷ける。死そのものが存在しないのだから。
そんな思考を巡らせてる内に、私の背後から忍び寄る影が、私を暗く染める。化け物の大きな鼻息だけが私の耳に聞こえ、私の額からは大量の汗が滴り、私は自分を覆っている恐怖の正体を再認識する。
この世界の死というものはどうあれ、それは先の恐怖の話だ。私が今現在にその身を震わせ、心臓の音を鳴り響かせている恐怖心の大半は、目の前の怪物に襲われてるという事実。
つまり、結局怖い事に変わりは無いという事だ。
またしても冷静さを欠いた私の思考は、その場から離れる事で頭の中がいっぱいになり、無様に足を滑らせる。
その瞬間、私の両の腕は緑の化け物に掴まれ、まるで物でも吊るすかのように、足が丁度地面につかないくらいに持ち上げられる。
私は激しく抵抗するが、塞がれた両腕、地面を蹴れない足では、無様に空中をもがくだけでどうすることもできない。
そのいかつく膨れた面貌に私の顔を近づけ、黄色い瞳を細めて私を睨みつける。テントの中で嗅いだものと同じ悪臭が私の嗅覚を襲い「げほっ!」っと、思わず咳き込む。
「ニンゲンニ、フクシュウヲ!」
再びその言葉が化け物の口から発せられると、周りの小さい取り巻きも高らかに声を上げる。
「フクシュウヲ!フクシュウヲ!」
私はこの世界に来てから、まだ二時間も経っていないというのに、人間という種族に一括りされ、その代表で私はこの化け物達の正義の元に殺されてしまうのだ。
私自身ではどうすることもできない——しかし、強いて言うならただ一つ。
「だれかああ!! たすけてくださいいぃぃぃ!!」
余りにも無様で、そして哀れだった。恐怖心であふれ出る涙を大量に頬に伝わせ、かろうじて言葉として聞こえる程の絶叫が森の中で響く。
「たすけて!! だれかあああぁぁぁ!!」
必死だった。恐怖に支配された私の感情では、もはや自分の姿に恥ずかし気を感じる余裕などはない。誰でもいい、この森の奥底で、この絶望的な私の状況から救ってくれる人はいないのか。
しかし、そのプライドも全て捨てた魂の叫びも、森の中に静かに木霊していくだけだった。
「誰か! 誰か……誰……か……」
絶望して、次第に小さくなってく声。その瞬間、私の胸に冷たい衝撃が走る。
「……え?」
その凍てつくほどに冷たい衝撃は、私の胸から背中にかけて走る。間違いなく、私の身体の中に何かが入り込んだ感覚だという事は、嫌というほど理解できた。
小刻みに震える瞳孔を下へ向けると、化け物の剣が私の胸から背中にかけて突き刺さっていた。
「さ……ささ……って……!」
痛みは感じなかった。それは、これがゲームだから、それとも死に近づいているのからなのか……それを考える余地は、私には無かった。
感じるのは、私の中に入っている刃物の冷たさと、身体を引き裂いていく自分の肉の感触。
「うっ……!」
その耐えがたい不快感に、私は思わず吐き気を催す。その一連の私の——人間の苦痛を眺めた化け物は、その太い前足を勢いよく突き出して私の腹部を蹴りつける。その慣性で私の身体は剣から抜き放たれ、まるで生ごみを放り出したかのように、力なく砂利の上に転がる。
もはや、涙も止まっていた。全てに諦めがついてしまった。今までの数々の抵抗も空しく一蹴され、最後は惨めに殺される。
ぴくりとも動かない身体。なんの像も映さない瞳。まるで、操る者のいないおもちゃの人形のようになった私が見据えているのは、曖昧なこの世界の死のみ。
——多分、死なないよね。
微かにそう自分に言い聞かせ、振り下ろされる刃から目を背けるように、かくんと首の力を抜いて目を閉じた。
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