夢想世界

 ふと、聞こえたきた鳥のさえずり、風で木の葉がサーっと揺らめく音。優しい風が私の身体を撫で、それに乗せられた草木の香りが私の鼻腔に伝う。

 とても心地が良かった。

 

 ——もう少し寝よう。


 感じたことの無い清涼感に、簡単に目覚めてしまうのがもったいなく感じた私は、目を開けることを拒む。

 私を包む風は布団。

 鳥のさえずりは子守歌。

 自然が生み出した最高の寝床に、私はその意識を微睡みに任せる。


 ——森で寝るのって、こんなに気持ちが良いんだ…。


「森……?」


 私は大きな違和感を感じ、微睡みに失いかけていた意識を取り戻す。パチッと目を開けた私の視界に入るのは、木の葉の間から差し込む朝日の光。

 がばっとその体を起こして周囲を見渡すと、その眼前に映ったのは、うっそうとした木々が何本も不規則に並び、風でその蓄えている葉を揺らめかせている光景。

 全く身に覚えが無かった。


「……え?」


 不意に少し強めの風が私の身体に吹き付け、服の間から入った冷たい空気が私の肌を直接伝い、肌寒さを覚える。

 自分の姿を確認すると、ボロ臭い薄緑色のワンピース一枚と腰に革のベルトを巻き付けてあるだけであった。その下は、身に着けた覚えも、所持してる覚えも無い、可愛げの欠片も無いような白い下着。


「何この格好……」


 自分の置かれている状況に納得いく答えを模索しようと、更に辺りを見渡すが、自分の視界に違和感のある無機質なものが見えている事に気づく。

 HPという緑色のバーと、MPという青色のバー。

 それらは私の視界に映り続け、目を瞑らない限り、視界から消える事はない。このバーの意味することが私には理解できなかったが、非現実な事象を目の当たりにして、やっと私は思い至る。


 そうだ、私……ゲームをしてるんだ。


 DRMMORPG ソルニウス・オンラインというゲームをプレイする為に、私は自室でゲーム機を頭に取り付けて床についたのだ。

 つまり、ここが夢想現実と呼ばれるゲームの世界。


「……ゲーム?」


 私はしゃがみこんで、草木を手で撫でてみる。触れた感触、手に染み付く青臭い匂い。どれを取っても現実世界となんら変わりは無かった。

 先ほどから聞こえる鳥のさえずりも規則的なものではない。あちこちから聞こえ、きっと一種類だけではない。

 この視界に映るHPとMPというバーを除けば、何一つ作られた世界だという事を感じさせない。


「凄い……」


 思わず感嘆の声を漏らす。

 素晴らしい完成度だ。目を輝かせ、ひとしきり周りを見渡した後に、自然と私は駆け出す。

 体を伝う清涼感を、目を閉じて全身で感じる。

 草木を踏む感触と音——これが偽物だとは思えない、もう一つの本物だと思える。


 すごいすごい! これが夢想現実!


 ほとんど興味を持ってなかった自分の感情など、この数分で上書きしてしまった。たかがゲームと侮っていた自分が恥ずかしくなる。もはや、ゲームの枠に収まるようなものでも無いのかもしれない。

 私はこの感激が収まるまで、当ても無く森を練り歩き続けた。





 一時間くらい経ち、さすがに現実世界と変わりない夢想世界の感動にも慣れてきた私は、一つの重要な事実に気が付いていた。

 全く身に覚えが無い森。歩いても歩いても同じような木々の景色だけ。この森に終わりはあるのか、私はそもそもどこに向かって歩いているのか。


「ここどこなの……」


 完全に遭難していたのだった。


 私は木陰に腰を下ろして途方に暮れる。なんの説明も無く、見知らぬ森に置いてけぼりにされた私。

 ゲームというくらいなのだから、やり方や今後の身の振り方などの説明があってもいいじゃないかと、そのやるせない気持ちを表すかのように小石を木に投げつける。

 持ち物も、身に着けているいい加減な服だけだ。

 これだけ歩いても、出会うのは木や草原に潜む気持ちの悪い虫と、今となってはやかましく感じる小鳥泣き声だけ。

 溜め息を吐くと、喉を通っていく空気に私は気が付かせられる。


「喉乾いたな……」


 このゲームが始まってからずっと歩いてばっかりだというのに、水分の一つも取っていない。当然の事だ。


 ゲームでも喉乾くんだ。


 一時間も歩けば足が疲れる、喉が渇く。当たり前の事なのだが、ここが夢__もといゲームの世界だと、やはり不思議な気がしてならない。うっかりすれば、ここがゲームの世界だと忘れてしまいそうだ。

 耳をすませば、鳥の鳴き声、風の音、川のせせらぎが聞こえる。これも、夢想現実というものが作り出した夢な訳で……。


 ——川のせせらぎ……?


 目を細めて耳を澄ますと、かすかに水の流れる音が聞こえる。近くに川があるのかもしれない。私はその水音を頼りに、足場の悪い森の中を進んでいくと、森の吹き抜けを流れるそこそこ大きな川を発見する。


「川だ!」


 意気込んで砂利の陸地に飛び出す。川の水を飲もうとは思わないが、その水を手ですくってみる。

 ひんやりと気持ちのいい冷たさが、私の手のひらに広がる。当然、水をすくった手は濡れて滴る。実際の私の手も濡れているんじゃないかという、頭の悪い考えが浮かんでくるくらいリアル——というか水の感触そのものだった。

 不意に、私は川の流れている方向へ視線を向ける。


 ——川を下っていけば、森を抜けられるかもしれない。


 まずはこの森を抜けて、同じゲームをしてる人たちに会わなければ何も分からないままだ。

 その砂利を踏みしめて、私は下流へと足を進めていくのだった。





 三十分くらい経っただろうか。川の幅も広さを増して砂利の石も細かくなってきている。未だに川の周りは森に囲まれているが。


「……三日ずっとこのままだったら、笑えないんだけど」


 ここまで川以外のものを発見できないと、最悪の事態も考えてしまう。

 ご飯とかはどうするのだろう。今はまだ空腹感を感じないが、そのうちお腹がすいて、食べなくてはいけなくなるのだろうか。食べなかったら……。


 ——死ぬ?


 その考えに、私は首を横に振る。死ぬだなんて……ここまでリアルな世界とは言え、ゲームなんだしあり得ないだろう。

 しかし、もしも仮にお腹がすいてどうしようもなくなったときは……。

 不意に、川を泳いでいる魚に目が留まる。


「……食べられるのかな。あれ」


 なんて事を考えてしまう。

 そもそも、私はサバイバル生活をしにこのゲームを始めたわけではない。奏を捜す為に始めたのだ。こんな所で道草食ってる場合ではない。

 というか、ここまで広くリアルなゲームの世界から奏を見つけるなんて、結構無謀なのでは? たかがゲームだと舐めていた。

 やるせない思いで、眉をしかめて歩き続ける私の視線の先に、何かが見える。


 テント…?


 ボロく薄汚い布切れで貼ってある小さなテントのようなものがあり、その周りに明らかに焚火の跡であろう木片の集まりがある。

 明らかに人工物だ。人が近くにいるのかもしれない。

 私は一抹の期待を膨らませて、そのテントに近づく。


「あのー! 誰かいますかー!」


 声を掛けながら近づくが、誰もテントの中から出てこない。留守だろうか?

 周囲を見渡すが、人らしき影も見当たらない。


 ここで待ってれば、誰か来るよね?


 私はこのテントの持ち主が返って来るまで待つことにした。下手に動き回るよりは確実だろう。

 そのテントに近寄ってよく見てみると、木の幹を骨組みに使っている。しかし、その長さにはバラつきがあり、いい加減に作られている感じが見受けられる。


 もっと綺麗に作れなかったのかな……。


 即席の使い捨てで作られたのだとしたら、ここに人が戻ってくる可能性は低い。少し不安感を覚えて私は眉を下ろす。

 なんとなくそのテントに手を掛けてみると、木の幹が折れて一部崩れてしまった。


「やば……」


 壊してしまった。直そうにも、幹が完全に二つに折れ曲がってしまっている為、このままでは不可能だ。「こんないい加減に作るから……」と、折れた木の幹を拾い上げる。

 このままじゃ、戻ってきた人たちに怒られるかもしれない。

 代わりになるような幹を捜してこようと、長さを確認する為に一度テントの中にお邪魔する。


「うっ……!?」


 嗅いだことの無いような刺激臭が私の嗅覚を襲う。私は思わず口と鼻を押さえてテントの中を出る。


「何この臭い……!?」


 なにかが腐っているような臭いだった。もしかしたら、ここは完全に放棄されて使われなくなったテントなのかもしれない。

 一応確認はしてみようと、鼻をつまんでもう一度テントの中へその身をくぐらせる。

 中は薄暗く、何があるかはよく見えなかった。しかし、子蠅がその羽音立てている飛んでいるのが分かる。

 

 無理無理無理。


 激しい生理的嫌悪感を覚えた私は、やはりテントの中を出ようとする。

 その時、急いだ事によって私の足はもつれてしまい、テントの布や骨組みを巻き込んで無様に倒れこんでしまう。

 

 「いてて……」


 すっかり大きな穴が開いてしまったテントの中に外の光が照らされる。「やっちゃったよ……」と、不意に私の視線はテントの中に向く。


「……え?」


 テントの中にあるテーブルらしきものの上に置いてあるのは、赤黒い何かの塊。その周りに大量の蠅が群がっているのが見える。

 よく目を凝らして見てみると、その赤黒い塊は小さな翼らしきものを広げているように見える。


 小鳥の死骸だった。

 

 ただ死んでいるのでは無い。何かに食い散らかされたかのように体の一部をちぎりとられている。


「うえっ……!」


 あまりの気色の悪さに、身の毛もよだつ思いをした私は、お尻を地面につけながら後ずさりすると、背中に硬いものがぶつかり、それが地面に転がる。

 その瞬間に、わさわさと何かが這うような音がテントの中に響き、私は恐る恐る後ろを振り返る。


 倒れたツボの中から、大量の芋虫が湧き出てきたのだ。


「きゃああああ!!」


 私は飛び上がって、反射的にツボから湧き出てくる芋虫から距離を取る。

 

 なんであんな気色の悪いものがテントの中にあるの……!?


 趣味が悪すぎる。仮にここに人が帰ったとしても、ろくな人格の人間ではない事は明確だ。

 言いようも無い恐怖を感じた私は、早くこの場を立ち去った方が良いと考え、テント内を覆いつくさんばかりに湧き出る芋虫から逃げるようにテントの中を飛び出す。

 その瞬間、緑色の硬いものが行く手に塞がり、それにぶつかった私は尻餅をつく。


「いったぁ……」


 私は「さっきから転んでばかりだな」なんて事を考えつつ、ぶつかった何かを徐々に見上げるように視線を上げていく。

 張り裂けんばかりの筋肉で膨らんだ足。

 薄汚い布切れで作られたボロボロのズボン。

 ぽっこりと膨らんだ腹。

 気色の悪いくらいに広がった肩幅。そして腕。

 それらが全て薄汚い緑色をしている。


「なにこれ……」


 その面貌は、膨れ上がったかのようないかつい強面に、人間と比べては長く太い鼻、そして黄色い眼を光らせて私を見ろしている。

 言い換えるなら、角の無い緑色の鬼だ。

 私はその化け物の姿に思考が停止して、まるでヘビに睨まれたカエルのように動けなくなってしまう。

 化け物は、片手に持っている錆び付いた大振りの剣を光らせて口を開いた。


「ニンゲン、ココデ、ナニシテル」


 まるで地獄の底から響いてくるような重低音で、その黄色い眼光を私に光らせる。

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