動物園その一

「ふあ……」


 ふと欠伸が漏れた。多分原因は、昨日で眠れなかったから。所謂寝不足というやつだ。


 二度寝をしたい衝動に駆られるけど、今日は無理だ。二度寝をする時間はない。


 なぜなら、今日は星村さんと動物園に行く約束をしてから、丁度一週間後だからだ。約束していた通り、僕は星村さんと動物園に行くことになっている。


 動物園開園時間の十一時に、現地で集合予定になっている。今は九時半を少しすぎたくらいだから、そろそろ出た方がいい。


 諸々の準備はすでに終えていたので、後は靴を履いて家を出るだけだ。


「…………」


 自室を出る前に、部屋の鏡で自分の姿を確認する。……いつもより少し格好を意識したけど、別に星村さんと出かけるから意識したとか、そんなことは決してない。


 自室を出て階段を降り、玄関へ向かう。そして靴紐を結ぼうとしたが、


「…………」


 何の前触れもなく、触れていた靴紐が切れた。


 ちなみにこの靴は最近買ったばかりのものだ。まだ大して使ってないから、汚れもそれほどない。普通なら紐が切れるなんてあり得ない。


 なのにあっさりと切れた。これはあれかな? 不吉なことが起こるのを暗示しているのかな? 家を出る直前にこういうことをされると、不安になるから本当にやめてほしい。


「だ、大丈夫大丈夫……」


 不安を追い出すように頭を振る。


 そもそも靴紐が切れたから不吉なことが起こるなんて、ただの迷信だ。科学的根拠も皆無だ。


 それにこんな予兆がなくとも、僕は常時不幸な人間だ。どうせ今日もロクでもない未来が僕を待っている。これぞポジティブシンキングというやつだ。


「行ってきます」


 リビングにいる家族に向けて少し声を張り上げた後、僕は家を出た。






 動物園へ向かうには電車に乗る必要があるあったので、僕はまず徒歩で駅に向かうことにした。


 駅は休日ということもあって人が多く、かなり混んでいた。僕は駅内を埋め尽くす人波を何とか乗り越えて、目的の電車に乗る。


 そして電車に乗ること二十分。僕は動物園の最寄りの駅に到着した。


 駅を出ると、まず最初に飛び込んできたのはポップなイラストの看板と、十数人ほどの列ができあがっている動物園の入場ゲート。


 次いで持ってきていたスマホで時間を確認してみると、時刻は十時半丁度だ。開園までは、まだ三十分ある。


 早く来すぎたかな? いやでも、遅刻するよりはマシだしいいか。とりあえず星村さんを探そう。


 とはいったものの、連絡先を交換してないから星村さんの現在地は確認のしようがない。まあ入場ゲート周辺をウロウロしてれば、そのうち見つかるはずだ。


 そう結論づけて動き出そうとしたところで、


「にーしーわーきー君!」


「…………!?」


 突然後ろから両肩を強く叩かれた。不意のことで転びそうになったけど、何とか踏み留まる。


 いったい誰がこんなことをするのか……なんて考えるまでもない。仮に声が聞こえなかったとしても、分かったはずだ。


 僕は背後を振り向いて、肩を叩いた下手人と顔を合わせる。


「……おはよう、星村さん」


「うん、おはよう西脇君」


 しかめっ面の僕に対して、星村さんは元気のいい笑みで応じる。


 当然ながら、今日の星村さんは私服だ。ただ以前公園やスーパーの前で会った時と比べると、今日の服は何というか……気合いが入ってるように見えた。


 本日の星村さんの服装は、デニムのショートパンツと肩が露出した白のブラウスの組み合わせ。


 ショートパンツは大胆に太ももを露出させ、ブラウスも肩の辺りが出ていて全体的に大胆な感じだけど、快活な性格の星村さんが着るとあまりイヤらしさとかは感じない。むしろ、よく似合っている。


「いやあ、いい天気だね。これは絶好の動物園日和だよ」


 太陽に視線をやりながら、星村さんは声を弾ませる。動物園日和かどうかは知らないけど、確かに今日はいい天気だ。


「……それにしても西脇君、目の下のクマ凄いね。もしかして、動物園が楽しみで昨日眠れなかったの?」


「あー……うんまあ、そんなところかな」


 星村さんの指摘は、当たらずとも遠からずといった感じだ。


 確かに僕は今日の動物園が原因で、あまり眠れなかった。けれど、決して遠足が楽しみで眠れなかったという小学生みたいな理由じゃない。


 女の子と二人だけで動物園に行くということを、必要以上に意識してしまったのが原因だ。まさか女の子と二人だけだから意識しすぎて眠れなかったなんて、言えるわけがない。


 もしこのことを星村さんが知れば、絶対にイジってくるだろうし。


「そっかそっか、西脇も何だかんだで楽しみにしててくれたんだ。なら今日はいっぱい楽しもうね」


 今から待ち切れないといった感じの星村さん。ここまで星村さんが動物園を楽しみにしてたというのは、ちょっと意外だ。


 ふと笑みを引っ込めると、こちらを穴が空くほどジーっと見つめてきた。


「……ねえ、西脇君。何か顔色も悪いよ? 大丈夫?」


「……どうだろう」


 その点に関しては大丈夫かと問われると、ちょっと自信がない。


 そもそも僕の顔色が悪いように見えるのは、家を出て駅に向かうまでの間に電線の上に止まっているカラスの群れが鳴き、黒猫が親子連れで目の前を横切った現場を目撃したのが原因だ。


 靴紐が切れただけでも不安に駆られたのに、どうして追加で二つも不吉の予兆を目にしなければいけないのか。


 おかげで移動中は色々とよろしくない想像をしてしまい、動物園開園前からかなり消耗してしまった。


 いったいどんな未来が待っているのか、考えただけでも恐ろしくくてしょうがない。とりあえず今日の目的は、動物園を楽しむことから生きて帰るに変更だ。


 僕が曖昧な回答をしたせいなのか、星村さんの顔色が不安げに歪む。


「もし辛いのなら、今日はやめておく? チケットもまだ有効期限はあるから、日を改めればいいだねだし……」


「いや、大丈夫だから心配しなくていいよ、星村さん」


「でも……」


 ここまで来て僕のせいで帰るというのは、流石に申し訳ない。また次行こうと思っても、互いの予定が合うとも限らないし。


「本当に大丈夫だから気にしないでいいよ。それに星村さん、今日動物園に行くの楽しみにしてたんじゃないの?」


「……うん、楽しみにしてた」


 コクリと星村さんは小さく首を縦に振った。


 誘ったのは星村さんだけど、チケットは僕が渡したものだから、楽しみにしていてくれたのは嬉しい。


「なら行こうよ。それにせっかく可愛い格好してるんだから、そのまま帰っちゃうのはもったいないよ」


 僕がそう告げると、星村さんは目を丸くした。僕、何かおかしなことを言っただろうか?


「……気付いてたんだ、西脇君。何も言わないから、気付かれてないのかと思ったんだけど」


「え……? 何のこと?」


「服のことだよ。気付いてたなら、感想ぐらい言ってほしかったな……」


 まるで拗ねた子供のように、星村さんは唇を尖らせた。いつもニコニコと笑みを絶やすことのない星村さんにしては、珍しいことだった。


 そういえば、デートの時は女の子の格好は真っ先に褒めるべきだと、以前テレビ番組で言ってた気がする。


 ……って、これはデートじゃないから適用されないか。いやでも、今星村さんは服の感想を言わないから怒ってるわけだし……お、女心は難しい。


 少なくとも、彼女いない歴=年齢の僕に推し量れるようなものではない。


 けれど、このままだと星村さんは機嫌を直してくれそうにない。流石に不機嫌な星村さんを伴って動物園を回るのはごめんだ。


 となると、ここは星村さんの服の感想を言って宥めるのが最善だ。


 とはいえ、僕の貧弱な語彙力で星村さんの機嫌を直せるかどうか……。


「ええと、その……きょ、今日の星村さん、可愛い格好だね。とても似合ってると思うよ」


「具体的には、どの辺りが似合ってるの? 詳しく教えてよ」


 精一杯の勇気を振り絞って出した称賛の言葉だったけれど、どうやら星村の心には全く響かなかったらしい。追加を要求されてしまった。


「く、詳しく? ええと……か、肩とか太ももとか大胆に露出してるところが魅力的かな。その、いつも元気な星村さんらしくて……」


 恥ずかしさで尻すぼみしていく声。言ってるだけで、顔が熱くなるのが分かる。羞恥心で軽く死ねそうだ。


 星村さんの服の感想を本人の前で言わされるとか、いったいどんな罰ゲームだろう。僕、何か悪いことしたかな?


「へえ、西脇君、そんなところ見てたんだあ?」


 しかし僕の羞恥心を犠牲にしたことが幸を奏したみたいで、星村さんの機嫌は直ったようだ。星村さんはいつも通りの笑みを作っている。そう、いつも通りの底意地の悪い笑みを。


「西脇君ってばエッチなんだから。ふふふ……」


 ……言うんじゃなかったと後悔したのは、言うまでもないことだった。

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星村さんは、不幸な僕を笑う エミヤ @emiya

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