保健室
僕は体育の授業が苦手だ。というか、運動そのものが得意ではない。
なぜなら、スポーツは常にケガの可能性が付き纏うものだからだ。不幸な僕にとっては、スポーツは危険なものでしかない。
そんな僕のクラスの今日の体育の授業はサッカー。サッカーボールを使ったかなり危険なスポーツだ。
油断すると大ケガをしかねない。だからケガしないように警戒していたわけだけど……、
「ぶ……ッ!」
それは準備体操を終えて、今日の授業のメインであるサッカーの試合中のことだった。
グラウンドで他のクラスメイトたちと一緒になってボールを追いかけていた時、突然横から何かが飛来し、顔面に鈍い痛みが走った。
同時に衝撃で一瞬視界が真っ白に染まり、立っていられなくなる。
倒れる瞬間、すぐ側にサッカーボールが転がっているのが見えた。さっき僕の顔に当たったのは、サッカーボールなんだろう。多分隣のコートから飛んできたものだ。
サッカーの最中にボールが顔面に飛んでくるなんて、実に不幸な僕らしい。
「大丈夫か、西脇ィ!」
今時珍しい体育の授業担当の熱血教師が、顔面にボールが当たって倒れた僕に雄叫びを上げながら駆け寄ってくる。
「だ、大丈夫です、先生……」
上半身を抱き起こされながら、何とかそう答える。ボールの当たったところがズキズキと痛むけど、この程度ならまだ可愛いものだ。
先生の助けを借りつつ何とか起き上がろうとしたけど、そこで鼻の辺りから痛みとは別の違和感を覚えた。
「あ……」
「おい西脇、お前鼻血が出てるぞ」
先生の言う通り、僕の鼻からポタポタと赤いものが垂れていた。決して少ない量ではない鼻血が、白の体操服を赤く染め上げる。
「西脇、保健室に行きなさい」
「はい……」
鼻をつまんで下を向きながら、フラフラと立ち上がる。
「付き添いは必要か?」
「いえ、大丈夫です」
下を向きながら歩くのは不便だけど、付き添いが必要なほどじゃないので遠慮しておく。
僕は少し頼りない足取りで校舎へ向けて歩き出した。
下駄箱で靴から上履きに履き替え、保健室へ向かう。授業中ということもあって、廊下には人の気配が全く感じられなかった。
人気のない廊下を歩くのは初めてのことなので、新鮮な気持ちで歩く。
しばらくすると、目的地である保健室の前まで到着した。いきなり入るようなマネはせず、コンコン、と数回ノックをして返事を待つ。
「どうぞー」
返事があったので、「失礼します」と言ってから保健室に足を踏み入れる。
「あ、やっぱり西脇君だ」
「……星村さん?」
保健室に入った僕が目にしたのは、保健室の奥のソファに腰を下ろした星村さんだった。体育の時間ということもあって、彼女も僕同様体操服を着ていた。
髪型も普段と違って、後ろに一つにまとめたポニーテール。運動するから動きやすい髪型にしたんだろうけど、今の星村さんは見ていて新鮮な感覚を覚える、
……って、見惚れてる場合じゃなかった。
「星村さん、どうして保健室に?」
「どうしてって、生徒が授業中に保健室にいる理由なんて一つしかないと思うけど?」
そう言って星村さんは、自分の左足を指差す。彼女の左足は足首の辺りをテーピングが巻かれていた。
「女子はバスケだったんだけど、ちょっと試合中にね」
「……痛そうだけど、大丈夫なの?」
「うん、先生が大袈裟にテーピングなんかしたけど大したことないよ。気を付ければ歩くのだって問題ないし」
星村さんは快活に笑う。
「それで西脇君の方は……鼻血かな? 凄いね、体操服が真っ赤かだよ。洗濯が大変そう」
「ちょっと授業中にね……」
「ふうん……西脇君のことだから、サッカー中にどこからともなく飛んできたボールが顔面にぶつかったってところかな?」
「……どうして分かるの?」
まるで見てきたように正確だ。もしかして、星村さんはエスパーか何かなのかな?
「分かるよ。だって私、西脇君のことは一年の春からずっと見てたもん。分からないことなんてないよ」
「え……」
星村さんの思わぬ言葉に、間の抜けた声が漏れてしまった。
僕と星村さんは一年の時からクラスは一緒だったけれど、今のように話す間柄になったのは一年の夏休みが明けてからのことだった。
それより前は、互いのことをただのクラスメイトとしか認識していなかったはずだ。なのに一年の春から見てたって、いったいどういうことなんだろう?
今の言葉はどういう意味なのか。その真意を問う前に、星村さんは声を上げた。
「あ、でもどうしよう。保健室の先生、用事があるからって十分くらいに前からいないんだよね。これじゃあ、西脇君の治療ができないよ」
なるほど、道理で保健室に星村さんが一人きりで先生の姿が見当たらないわけだ。用事で席を外していたのか。
「鼻血くらい、一人でどうにでもできるから先生がいなくても大丈夫だよ」
星村さんの捻挫に比べれば、僕の鼻血なんて可愛いものだ。一人でどうとでもなる。
「ダメだよ。鼻血とはいえ、西脇君は立派なケガ人なんだから大人しくしてなくちゃ」
「大人しくって、そんな大袈裟な……」
たかが鼻血程度、星村さんが心配するほどのことでもない。鼻にティッシュでも詰めておけば、そのうち止まるはずだ。
さてと、ティッシュはどこにあるのかな?
下にを向いてるため狭い視野の中で、保健室のどこにティッシュがあるのか探す。
「はい、西脇君」
いつの間にやら目の前に来ていた星村さんが、何かを僕の前に差し出してきた。視線だけ向けると、それが僕の探してたティッシュだったことが分かる。
「ティッシュ、探してたんだよね?」
「あ、ありがとう。僕がティッシュを探してるって、よく分かったね」
「あはは、見てれば分かるよ」
星村さんがクスリと笑う。
僕は箱ティッシュを受け取ると、星村さんが座っていたソファに腰を下ろす。もちろん、星村さんとは少し距離を開けてだ。
鼻に詰めるためのティッシュを作ろうと準備するけど、右手は鼻をつまむために塞がっている。残った片手じゃ上手く鼻に詰めるティッシュを作れない。
元々僕は器用な方じゃないけど、これには少しイライラする。
「私がやってあげようか?」
「え……?」
しばらく鼻に詰めるティッシュ制作に悪戦苦闘していると、僕と離れて座っていたはずの星村さんが、いつの間にか距離を詰めてすぐ側に座っていた。
「鼻に詰めるティッシュ、私が作ってあげるって言ってるの。片手じゃやり辛いんだよね?」
「そうだけど……悪いよ、星村さんにやってもらうなんて」
「遠慮なんかしなくていいよ。見てて焦れったいし」
そう言って僕から箱ティッシュをふんだくると、ティッシュを丸め始めた。
両手が使えるだけあって、星村さんは手早く鼻に詰めるティッシュを作り終える。
「はい、それじゃあ次は鼻に入れるからこっちを向いて」
「そ、そこまではしなくていいよ。後は自分でできるから」
「ダーメ。ほら、動かないで」
星村さんの細腕が僕の顔に伸びる。僕が避ける前に、星村さんの手は顎の辺りに触れた。
「入れるから、動かないでね」
今の星村さんは、片手に鼻に詰めるためにまとめたティッシュ。もう片方の手は僕の顎の辺りに添えられている。
おかげで、星村さんの体温が低いせいかヒンヤリとした冷たさと、女の子特有の柔らかい手の感触が嫌でも伝わってくる。
星村さんの手の冷たさと反比例して、僕の顔が熱を持つのが自覚できる。星村さんにその変化が知られたりしないか、少し不安になる。
「はい、終わったよ」
「あ、ありがとう……」
星村さんの手の感覚に戸惑っている間に、星村しんは僕の鼻にティッシュを詰め終えていた。
「西脇君の顔、思ってたより温かかったね……」
「まあ、さっきまで体育でサッカーしてたから……」
嘘だ。今僕の顔が熱を持っているのは、もっと別の理由だ。けれどそれを悟られたくないから、バレないようにと願いつつ嘘を吐く。
「……本当だ。髪の毛、ちょっと濡れてるね」
一度僕の顔から離れた手がまた伸びてきて、汗に濡れた僕の髪に星村さんの細長い指が触れる。
「き、汚いよ」
「気にしないよ」
言いながら、星村さんは指先で僕の髪をイジり続ける。
「西脇君の髪、思ったより柔らかいんだね。私より柔らかいかも。よく柔らかいって言われたりしない?」
「し、しないよ。それより、もう鼻にティッシュを詰めたんだから、離れてよ……」
「えー、もうちょっと触っていたいんだけどなあ……残念」
渋々とではあるけど、星村さんは僕の髪から手を離してくれた。僕の髪なんか触って、いったい何が楽しいのやら。
まだ心臓がバクバクうるさい。星村さんのスキンシップは本当に心臓に悪い。うっかり勘違いしてしまいそうになる。
……それにしても、僕の髪って星村さんの髪より柔らかいのかな? ちょっと気になる。
先程の星村さんの発言で、僕の中の好奇心が少しだけ顔を覗かせた。特に意識していたわけではないけど、自然と視線が星村さんの艶のある黒髪に固定される。
星村さんは僕の髪を柔らかいと言ってくれたけど、僕としては彼女の髪の方が余程柔らかそうに見える。
「ねえ、西脇君も私の髪、触ってみる?」
「え……」
それは突然の提案だった。あまりにも唐突すぎて、一瞬思考が止まる。
「あれ、触りたいんじゃないの? さっきから私の髪に熱い視線を送り続けてるから、触りたくてたまらないんじゃないかと思ったんだけど」
星村さんは、不思議そうに首を傾げた。
どうしてバレたのかと疑問が浮かんだけど、隠しもせずあんなにジーっと見ていれば、気付かれるのは当然かと思い直す。
「どうする? 西脇君がどうしても触りたいのなら――いいよ?」
甘く囁くような声音が、僕の耳朶に届く。何となく抗い難い空気を纏ってるように感じるのは、僕の気のせいだろうか?
「いや、その……」
けれど、ここまで言われてもまともに答えられないのは、実に僕らしい。本人に許可がもらえたからといって、気安く触るのは躊躇われる。
「むう……」
煮え切らない僕に痺れを切らしたのか、星村さんはこそっとまるで僕を惑わそうとするように耳打ちする。
「今なら誰もいないから、触り放題だよ?」
「…………!」
まるで雷にでも打たれたかのような衝撃が、僕の全身を駆け巡る。
今保健室にいるのは、僕と星村さんだけ。誰かに見られる心配はない。それに星村さん本人がここまで言ってくれているんだ。なら触っても……いいのかな?
フラフラと覚束ない動きではあるけど、僕の手が徐々に星村さんへと伸びる。そして指先が星村さんの美しい黒髪に触れそうになったところで、
「お留守番させちゃってごめんなさい、星村さん」
突然保健室の扉が開かれたかと思えば、扉の向こうから白衣を着た女性が現れた。彼女はこの保健室の主、つまり保険医だ。
予期せぬ第三者の登場に、僕の動きは止まる。
そしてハっとした僕は、慌てて手を引っ込める。あ、危なかった。うっかり星村さんの口車に乗せられてしまうところだった。
もしあのまま星村さんの口車に乗っていたら、後でそれをネタにどれだけイジられることか……考えただけでも恐ろしい。
「あら? 私がいない間に一人増えてるわね、君は?」
「あ、ええと僕は……」
先生に体育の授業中ボールを顔面に受けて鼻血が出たため、保健室に来たことを説明する。
「なるほど。見たところこれ以上何かする必要もないみたいだし……鼻血が止まったら授業に戻りなさい」
それだけ言うと、先生は保健室中央に置かれたデスク前の椅子に腰を下ろして僕たちに背を向けた。
「ねえねえ、西脇君」
横から声をかけられ、そちらに振り向く。振り向いた先の星村さんは、茶目っ気を感じさせるように口角を吊り上げていた。
「先生が来ちゃって、残念だった?」
「…………」
星村さんのからかい混じりの問いに、僕は無言を貫いた。
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