1-2

競り合っていた二者ではない。会場の後ろで上がった声に客たちはかえった。立ち上がった二人組の男が、客席の間をうように舞台の方へと歩いてくる。

 一人はがっしりとした長身のたいにダークスーツをまとい、く伸びたひげちゃかっしょくの髪が一体化した顔の男だ。男はずかずかとおおまたで舞台に上がった。手にぶら下げているのは銀色のジュラルミンケース。

 もう一人は、こんな場所に似つかわしくない、上品な身なりの若者だった。

 のりの効いた白いシャツにグレンチェックのベストを合わせ、タイピンには一つぶの宝石がきらりと光る。彼は目深まぶかかぶったハンチングぼうを軽く上げると、いたずらっぽいほほみを浮かべた。おしのびでやってきた良家の子息のような、高貴で整った顔立ちだ。周りの注目を浴びているのにひるむ様子はなく、ゆうゆうとした態度で舞台に上がる。

 髭男がジュラルミンケースを開けると、帯付きの札束が整然とめられていた。

 舞台上も客席もしんと静まり返る。

「二千万ある。数えてくれていいぞ?」

「にっ !? ……こ、これ以上の金額はいらっしゃいませんね?」

 予想外の額に、司会役が上ずった声で落札を宣言した。客席からのどよめきとブーイングの声は同じくらい。……これで、リタは彼らに買われた、ということになるらしい。

 ハンチング帽の青年がたたみナイフを取り出し、リタの手首の縄を切ってくれる。

 目が合うと、彼はにっこりと笑った。

(……まぶしい)

 明るくさわやかながおに見つめられると、自分のきたなさがりになるような気がして、リタはのがれるようにつま先に視線を落とす。

 その耳元に、青年がスッと顔を近づけた。

「……きみ、走れる?」

 ないしょばなしでもするような甘いささやき。

 どういう意味だろう……?

 不思議に思いつつリタはうなずく。

 青年は微笑んだ。

「いい子だ。――ちゃんとついておいで!」

(え?)

 ぐいっと手をつかまれる。と、同時に青年が走り出した。

 青年に引きずられるような形で舞台の階段をりる。ガシャン、青年がたおした客席のグラスが割れる。テーブルがひっくり返る。まどいはごうへ。誰かが声を張り上げた。

「待て! そいつ、アルバート・ロレンツィだ!」

 アルバート・ロレンツィ?

 聞こえてきた名前をはんすうする。それが、リタの手を引く青年の名前らしい。

 フロアをけると、出入口の前に体格のい男が立ちふさがった。男がふところの中身をさぐすよりも前に、リタとアルバートをい抜かした髭男が飛びかかり、そのよこつらなぐり飛ばす。殴られた男はこんとうした。髭男は勢いよくとびらを開け放つ。

 こもっていた煙草のけむりが、ざあ、と夜の空気に逃げていった。

「急げ!」

 二人からられたリタは、外につながる階段を駆け上がった。

 訳もわからず地上へ出る。雑然とした、うすぐらい裏通りだ。息つく間もなくアルバートは リタの手を引いたまま走る。

「追え! 逃がすな!」

 背後から聞こえる怒声と足音。

(ど、どこに行くの? なんで追いかけられるの?)

 混乱するリタの身体を、振り返ったアルバートが力いっぱい引き寄せた。

「っ!」

 パン、というかわいた音を耳でとらえた時には、アルバートにきしめられるようにいしだたみに転がっていた。「動かないで!」、身を固くするリタを抱いたまま、二転して近くのつみに身を寄せる。外れたハンチング帽の下は、月明かりをはじしっこくの髪。

 ぼうぜんとしているとすぐに身体を引っ張り起こされる。

 アルバートのひだりかたが目に入り、リタは息を飲んだ。

(血、が)

 ベストごと肩の部分がけ、シャツに赤いみが広がっていく。

(今の、じゅう? なんで、どうして、たれ……っ)

 ぐちゃぐちゃに混乱した思考をかき消すように、再び銃声が響いてリタは身をすくませた。道をはさんだものかげに身を寄せた髭男が、背後に向かって銃の引き金を引いている。

 追っ手に当たったのか、ぎゃあっといやな悲鳴が上がった。

は」

 髭男がアルバートの肩をあごで示す。

かすっただけだ。ここは任せる」

「ん。先に行ってろ」

 短いやり取りだけで、アルバートはリタを連れてせまい路地へ入った。

 聞こえてくるはっぽう音から遠ざかるように、アルバートは何度も道を折れる。リタはただ足を動かすしかない。だって、足を止めたら、捕まるか、殺されるかもしれないのだ。

 

――こわい。


 今さらながらきょうがじわりとおそってくる。

 舞台の上では他人事のようにしか感じられなかったのに、今、リタの身に降りかかっている危険はすべて現実だ。

 何もかもあきらめていた。

 捕まって、売られて、もうどうでもいいやとさえ思っていたのに、今さら――今さら、 死ぬのは怖いと思った。ふるえるリタの手をアルバートがぎゅっとにぎる。

やつらよりも先に港につきたい。女の子をエスコートするには気が引ける道だけど……」

 行き止まりにしか見えない場所で、アルバートはフェンスに手をかけた。ここをえていくつもりらしい。

「登れる?」

 アルバートの背よりも高いくらいだが、登れなくはない。

 頷きかけてリタは思いとどまった。

(でも、この人についていってだいじょうなの?)

 さっき会ったばかりのじょうの知れぬ相手。港に向かうということはおそらく船に乗る。この地とは違うところに連れていかれるということだ。

 そんな迷いを見抜いたアルバートが、ダークグリーンの瞳をリタに向けた。

「……僕はきみを助けにきたんだ。信じて」

 視線をずらすと、リタをかばってくれたせいで撃たれた左肩が目に入る。

(この人を信じていいの?)

 迷ったけれど、……信じたい、とかくを決める。

 きしかなあみに手をかけると、アルバートはあんしたようだった。長々と問答する時間がしいのだろう。怪我をしているとは思えないほどばやい動きでフェンスを乗り越え、リタもその後をしんちょうに、しかし急いで追いかける。

 上部をまたいだリタに、下で待っているアルバートが右手を伸ばした。

「飛んで。大丈夫、ちゃんと支えるから」

 伸ばされた手を取る。リタはフェンスを蹴った。

 南からく潮風が、身体に残っていた煙草の匂いを吹き飛ばす。息苦しさに押しつぶされそうだった肺にしんせんな空気が入り、死にかけていたさいぼうひとつひとつが目覚めていくようだ。未知なる世界に足をみ出すリタの心がざわりとれる。

 

――わたしはここを出ていく。勇気を出して飛んだ身体は、思いのほか軽かった。

 その身体を、アルバートが地上で支えてくれる。

「港まですぐだ。行こう」

 再び駆け出したアルバートは、もうリタの手を引かなかった。引かなくても、リタが自分の足でついてくると確信したのだろう。

 どうしてアルバートについていくのか、リタ自身もよくわからない。

 買われたから?

 助けてくれたから?

 ……それだけでは言い切れない。

 あらがえないような何かを感じて、リタは前を行く背中を必死に追いかけた。

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