冬の便りと薄氷の朝~宇佐美 蘭~
朝の山に囲まれたあぜ道は、前にも後ろにも人っ子一人歩いていない。
ひんやりした空気が肌に染みる。
マフラーに口元まで顔を埋め、上着のポケットに突っ込んだ手を、ぎゅっと握って指先を温めた。
足元の砂利を踏むたびに鳴る乾いた音が、静かな田舎町の風景に溶けていく。
左手の田んぼには、薄氷が張っていた
その上空を、1羽の白い鳥が飛び回る。
ミャーッ ミャーッ
「・・・カモメ、なわけないよね。なんだろ」
下から見ると身体は白いが、羽は黒い。
まるで海辺のカモメに見えるが、ここは田畑しかない。
不思議な鳥が再び田んぼに降り立つのを見届けてから、まっすぐ町へと続く道を歩く。
右手の丘陵にある月夜神社へと続く朱い鳥居のそばに、この時期らしい花を見つけた。
「へぇ・・・椿かな」
森の緑に一際映える赤い凛とした椿。
最近、私はこうして身近にあるもの、ふと目に入ったものに立ち止まってみるようにしているのだ。
いつもならこれだけ寒いと、つい先を急いで周りなんて気にもしない。
鳥が飛んでいようと鳴いていようと、ちらりと見るくらいで、わざわざ見上げてその鳥の名を考えるなんて事もしない。
私にとって1番優先順位が低かったスマホを鞄から取り出して、その花の写真を撮った。
鮮やかな色合いで撮れた写真に、思わず「うん、良い感じ」と心の中でガッツポーズをした。
「あの、すみません」
「えっ、あ!はいっ」
撮った写真を保存していると、鳥居から続く階段を降りてくる大きな荷物を背負った女性の声に驚いてスマホが手から滑り、砂利に画面側から落ちてしまった。
「あぁっ、ごめんなさい!大丈夫?!壊れてないですか?!」
幸い、画面は無事なようだ。画面の汚れを手で払って女性にも見せると「あぁ、良かったぁ」と胸をなでおろしている。
背負っているのはギターだろうか。黒く大きなケースが細身の彼女にかなり目立つ。
「ここの神社ってもう全然手入れされてない感じですか?なんか、昔来た時より随分寂れてたんだけど……」
「あぁ……私もよくわからないんです。昔はお祭りとかもやってたいみたいですけど、今はそういうのも無いみたいですね。昔は神主さんも居たんだけど、もう今は廃墟みたいなものかも」
「へぇ……。まぁ、きっと神様もどこかにお引越ししたよね。うん。ありがと!驚かせてごめんなさいね。じゃっ」
女性は、私が今歩いてきた方向に向かう。
が、突然「あ!そうだそうだ」と、引き返してきた。
「これ、良かったら聞いてみて。私のデビューCD。へへっ、私一応歌手なの。新人だけどね。宣伝宣伝!じゃ、さよーならっ」
嵐のように去って行った女性のCDのジャケットは、まるで別人かと思う程に透明感に溢れ、秋の夕暮れを思わせるコスモス畑の中で撮られたものだった。アコースティックギターを抱き、気持ちよさそうに空を仰いでいる写真だ。
「チコっていうんだ」
CDを肩から掛けていたバッグに仕舞い、じんわりと沁みる温かい珈琲を飲む自分を想像しながら、れんげ草へと足を急いだ。
「はい、お待たせしました。今日はとても顔色が宜しいですね。最近はよく眠れているんですか?」
「あぁ、うん。新しく始めた仕事がね、良い感じなんだよ」
穏やかな日差しがテーブルに陽だまりを落とす。そこに、珈琲の入ったカップを置いた美鈴さんは、相変わらず慈愛に満ちたような声色で尋ねた。長い黒髪を低い位置でお団子にまとめる彼女の白い首筋は、女の私でも思わず見惚れてしまう程の透明感を放つ。いやらしいと言うよりも、神秘的な雰囲気が彼女にはあった。
「あら。これ、どこかで落としました?」
テーブルに置いたスマホを見た美鈴さんの言葉に、思わず「えっ」と声が漏れた。画面が綺麗だったから気付かなかったが、角の部分にがっつり擦れたような傷が入っている。
「うわ。あぁ、まぁ良いや。ここに来る途中に、落としたんだよね。月夜神社から出てきた人が声をかけてきて、びっくりしちゃって」
「えー!月夜神社からですかぁ?!」
真っ先に食いついて来たのはみーこちゃんだ。
「どんな、方でした?」
「えっ……っと、なんかギター背負ってて。あ、その人にCD貰ったんだ」
鞄から出したCDを美鈴さんに渡す。
「良かったらここでかけてくれない?聞きたいんだけど、再生させるものが無くてさ。もしどこかで会った時に感想も言えないじゃ、申し訳ないし。一回だけで良いから、駄目かな?」
美鈴さんが、ジャケットを食い入るように見つめている。それを背伸びをしながら覗き込むみーこちゃんが「あぁ!!」と声を上げた。
「これ……。そうでしたか、良かった……」
「え?」
美鈴さんの声が微かに震える。安堵と喜びが混じったような声で、彼女は「かけてきます」と、キッチンの窓辺にあるサイドテーブルに乗せられたプレーヤーにCDを持って行った。
ささやくような優しい柔らかな歌声。軽やかなそよぐ風を思わせるようなメロディ。ボサノバと言われるジャンルだろうか。音楽にはあまり詳しくない自分だが、どことなく目を閉じて聴いていると、瞼の裏に穏やかなコバルトブルーの海が広がる。
珈琲の香りと音楽。キッチンに座り、ジャケットに目を落としたまま歌声に耳を傾けている美鈴さんと、その隣でアキを抱いているみーこちゃん。
二人のさっきの反応がどういうことなのかと尋ねようとした時、背後のドアが開いた。
「おはようございます。あ、宇佐美。今日は随分早いんだな」
西野君が隣のテーブルに座り、鞄を足元の籐のカゴに入れる。
「あれぇ!西野さん。いらっしゃいませぇ」
「みーこちゃん、おはよう。あれ、美鈴さん、どうかしたの?」
みーこちゃんは、少し驚きながらおしぼりとメニューを持ってテーブルへやって来た。
美鈴さんは西野君が来たのにも気付いていないくらい、音楽に聞き入っているらしい。窓辺の椅子に座って目を閉じたままだ。二曲目がちょうど終わったころ、私たちの話し声にハッと目を開けた美鈴さんは、西野君の姿に慌てて立ち上がった。
「あら、西野さんごめんなさいね。えっと、ご注文はお伺いした?」
「まだですぅ」
みーこちゃんは西野君から注文を取り、美鈴さんに伝える。珈琲豆が入った瓶から豆を取り出し、手回しのアンティークミルでゆっくりと珈琲を挽く音が心地いい。
美鈴さんが珈琲を抽出し始めると、ふわりと店内を珈琲の香りが包み込んだ。
「もしかして、このCDの方、知り合いか何か?デビューCDって言ってたから、ここのお客さんだった人とか?」
「えぇ…。そうですね。チコさんは古い知り合い……みたいなものです。私の所に、よく会いに来てくださっていました。誰も寄り付かない私の所に。歌手になりたいとお伺いしていました。私もそんな彼女をずっと応援していたのです。だから、夢が叶ったと知ってとても嬉しくて、つい」
「へぇ……。良い曲ですよね。ここのお店の雰囲気にも合ってると思います。ね、宇佐美」
「え?う、うん。美鈴さん、良かったらこのCDここで掛けといてよ。どうせ持って帰ってもうちじゃ聞けないからさ」
珈琲をカップに注いだ美鈴さんが「まぁ!それはとても嬉しいです。ありがとうございます!」と、普段あまり聞かないくらい明るい声で言った。
「あれ、美鈴さん。このCDを歌ってる方って、今までここで掛けていたものと同じ方じゃないですか?」
西野君に言われて初めて気が付いた。そうだ、この声は聞きなれている。この店でいつも掛かっている曲と同じ人が歌っていたのだ。
「そうですよ。今までかけていたのは、彼女が個人的に作っていたCDです」
美鈴さんが運んできた珈琲を西野君が「いただきます」と一口飲む。
「ん?何?」
「あっ、いや。何も」
西野君から慌てて窓の方に顔を逸らす。
窓の向こうの路地裏商店街も、あちこちが開店準備を始めている。
八百屋の主人が店先に座って、その隣の精肉店のおばちゃんも白いエプロン姿で、店の前を掃除していた。
「あっ」
カフェの隣に立つポプラの木。
その陰に、背丈20センチくらいの白い着物姿の女性がこちらを覗いていた。
「どうしました?」
「い、いや……」
――しまった。声に出しちゃった
西野君は不思議そうにこちらを見ている。
美鈴さんは窓辺に近づき「あら、まぁまぁ」と落ち着いた口調で言うと「ちょっと待っていてください」と店の外へ出て行ってしまった。
「なに?何かいたの?」
西野君が窓に近づく。美鈴さんはしゃがみこんで、その小さな女性と何か話しているようだ。
彼には見えるはずはないので、きっと彼女が一人で喋っているように思うだろう。
私の事はどう思うだろう。気味悪いと思われたらどうしよう……
「何かいる?」
「いや……その……」
言い訳が思いつかずにうろたえるしか出来ない。
暫くすると、美鈴さんが戻って来た。さっきの場所には、もうあの女性の姿は無い。
「お待たせしました」
「美鈴さん、どうかしたんですか?」
「えぇ、まぁ。以前ここにいらっしゃったお客様を探しているようでした。その方の痕跡を辿ってここにいらしたみたいです」
美鈴さんは、エプロンを着けてキッチンに戻った。
「もしかして……人間じゃないとかですか?あはは、まさかですよね」
「そうですねぇ、人間ではありませんね」
「えっ」
ためらう事無く答えた美鈴さんに、私は思わず息をのんだ。
「宇佐美も、見えるの?っていうか、見えてたよね」
西野君がテーブルに戻り、私の目を真っ直ぐ見つめて尋ねる。
人に自分からこんな話をしたことが無い。人間じゃないものが見えるなんて、気味悪がられる事はわかっている。実際、親にすら気味悪がられたほどだ。姉はそんな私を「すごい事だ」とむしろ羨ましがっていたが、他人は違う。絶対にそうはいかないことくらいわかっていた。
「お二人とも、良かったらシフォンケーキ召し上がりませんか?」
美鈴さんは大きなホールのシフォンケーキの乗ったお皿を、私たちに掲げて見せた。
「あ、はい。いただきます」
西野君の言葉に、私も頷いた。
「人間の目には、全てのものが見えていると思いますか?」
シフォンケーキを切り分けながら、美鈴さんがクスクスと笑って尋ねた。
「人には見えていない物って実は沢山あるんですよ。幽霊や、あやかし。神様だってそう。それでも、時々そういった者たちを見る目をお持ちの方がいらっしゃいます。人は多数と違う者を嫌う傾向があるようですが、西野さんはいかがですか?そういう目を持つ方は、お嫌いですか?」
生クリームを泡立て、お皿に盛り付ける。
「いえ。僕は見えないですけど、そういう話は聞いたことがありますし……。むしろ少し羨ましいと思います。まぁ、怖いのは嫌ですけど」
ふわふわの生クリームに色鮮やかなミントを添えたシフォンケーキを、みーこちゃんが私に。美鈴さんが西野君のテーブルに運ぶ。
良い匂いがする。紅茶だろうか。
「アールグレイの茶葉を使ったミルクティーシフォンケーキですよぅ。美鈴さんのケーキはとっても美味しいのです」
みーこちゃんが、得意気に胸を張ってみせた。
「先程の方は……いわゆる、神様に当たる者です。と言っても、今は自身の力を維持するのもやっとな程のようですけれど。探し人の痕跡をたどっている内にここに辿り着いて。ここのポプラは霊力が他より強いですから、少し休んでおられたようです」
「霊力、ですか。宇佐美は見えてるんだ」
「ま、まぁ……うん」
それ以降、彼は何も聞いてこなかった。美鈴さんもキッチンに戻り、椅子に座って音楽を気持ちよさそうに聴いていた。
みーこちゃんは、店の隅でアキを抱いて遊んでいる。
とりあえず西野君にあからさまに嫌な態度を向けられなくて良かった。まぁ、本心がどう思っているかは別の話だが。
紅茶のシフォンケーキに生クリームを乗せて食べる。
ミルクティーの香りと、優しい甘さ。生クリームが舌の上で滑らかに溶ける。
「美味しい」
緊張感で強張っていた頬が、一気に緩んだ。
シフォンケーキを食べ終え、お気に入りの本を読みながら珈琲を楽しんでいた頃、カフェの扉が開いた。
「あら、堤さん。いらっしゃいませ」
立派なカメラを手に、大きなリュックを背負った大柄の男性がやって来た。
「どうも。いやぁ、今日も良い写真が撮れましたよ。クロックマダムと珈琲で」
堤さんという彼は、私の向かいのテーブルにどさりと腰かけた。
ほどなくして運ばれてきたクロックマダムの卵の部分にフォークを入れる。
とろりと流れ出る黄身をパンに付け、美味しそうに頬張った。
「前に、西野君が食べていたものだよ。うん、お洒落だ。ホワイトソースに卵というのも、とても合う。こりゃあ美味い」
私は変わらず本に視線を戻す。西野君も隣でブックカバーの付いた文庫本を手に「良かったです」と微笑んで、さっきお代わりした珈琲に口をつけた。
「ねぇ、それ。何呼んでるの?小説、じゃないよね」
西野君が身を乗り出すようにして訪ねてきた。
「あぁ、これ。見ても良いよ、はい」
何と説明したら良いのかわからないので、とりあえずそのまま彼に手渡した。ゆっくりページを捲っていく。
「へぇ。どの写真も綺麗だね。僕、福井って行った事ないけど、こんな雰囲気の良い喫茶店があるんだ。純喫茶って言うのかな、こういうの」
「うん。この本、最近の一番のお気に入りなんだ」
私がそう言って本を受け取ると、クロックマダムを食べていた堤さんが、身体をひねってこちらを振り向いた。
「お嬢さん、それ」
「え?」
私が持っていた本を見るや否や「おおっ!いやいや、これはこれは!」と途端に満面の笑みで手を差し出してきた。
訳も分からず、その手を握り返す。
「ありがとう!いやぁ、自分の本を読んでくれている人に実際に会えるのは、こんなにも嬉しい事なんだなぁ」
美鈴さんもみーこちゃんも、不思議そうにこちらに視線を向けていた。
「それ。私の本なんですよ」
「え。えぇ?!」
思わず声が裏返った。
「喫茶うみねこでしょう。福井編。一章は、おにぎり食堂」
「そう!そうです!え、本当に?!」
「すごいね、著者に会えるなんてそうあることじゃないよ」
西野君も自分の事のように嬉しそうだ。
「私、一章が凄く気に入って。それでこの本も買いに走ったんです。毎日、一日の終わりに読むのが至福の時間なんですよ」
「そうですかい。いやぁ、そりゃ嬉しい。私、本業は写真家なんですけどね。写真撮って旅しているうちに、その二件の店に出会ってね。どうしても俺の備忘録としても本にしたいってんで、別名義で出したんですわ。おにぎり食堂は、写真家仲間のゲンっちゅう奴が常連でね。そいつが教えてくれたんですわ。うみねこもね、日常から隔離されたような、落ち着いた雰囲気の良い店でしたよ。どっちも料理がこれまた美味くてね」
そう言って珈琲を飲む。大柄な堤さんの大きな手に、珈琲カップは小さく見える。
私は彼の話をその後も食い入るように聞いていた。
それぞれの店での話。出てくる食べ物の話。
どちらも自然に溢れた中に佇む店で、どちらもお客さんにとても愛されているお店だという事。
「ここの事も本当は本にしてみたかったんだけどね。美鈴さんに駄目だって言われちまった。しゃーねぇんで、こっちにいる間に存分に堪能しとこうと思っとります」
がははと笑う堤さん。美鈴さんも「すみません」と苦笑いしていた。
食事を終え、珈琲を飲んだ堤さんは、忙しそうに荷物をまとめていた。
「あら、もうお帰りですか?」
美鈴さんが、ラッピングしたクッキーを帰り支度をする堤さんに渡す。
「えぇ。これから一度会社に戻らんといけんのです。折角だからゆっくりしたいところなんですけど、こればっかりは。いつもクッキー美味しく頂いてますよ。ありがとうございます」
堤さんは玄関に向かい、アキも三本足で器用に歩いて彼を見送りに出た。
そんなアキを愛おしそうに撫でてから、玄関ドアを開いた。
「あ、そういえば。この向かいの空き家、取り壊すみたいですね」
堤さんが、れんげ草の向かいにある古い木造の家を指さした。
路地裏商店街の奥であるここは、れんげ草の向かいの並びは4件とも空き家だ。もうかなり古いみたいで、大きな台風でも来たら屋根の一枚でも飛ばされるんじゃないかと思うくらい。窓ガラスも真っ白に曇るほど汚れ、勝手口の上に取り付けられたトタン屋根も今にも朽ちて落ちそうになっている。
「店に入る前に、そこの前で役場の人間らしき人と業者が話し込んでましたよ。あぁ、あとやたらとそこのポプラを見上げてました。まさか切ろうってわけじゃないとは思うけど……あぁ、そろそろ行かないと。じゃあ、また」
彼は、テーブルについたままの私たちにも手を掲げて会釈して帰って行った。
ドアを閉めて、振り返った美鈴さんの表情は曇っていた。
「まさか、ですよね。美鈴さん」
みーこちゃんが不安げに、キッチンに戻った美鈴さんを見上げる。
「どうでしょうね」
そう答えるだけだった。というよりも、それ以上どうとも言えなかったのだろう。
ふと、となりの西野君に目を向けると何やら落ち着きなく、話し出すタイミングでも伺っているように、美鈴さんを目で追っていた。
「どうしたの?」
声をかけると「えっ、あぁ……いや」と俯いてしまった。
「あの……今日はお休みにさせていただいても宜しいでしょうか。ごめんなさい、せっかく来てくださったのに」
みーこちゃんも隣で「ごめんなさいですぅ」と、小さな頭を垂れていた。
今朝よりも陽が高くなり、田んぼに張っていた薄氷ももう無くなっていた。
終始だんまりな西野君の向こうで、田んぼの上をまた朝と同じ鳥が「ミャー」と飛んでいた。
「ねぇ、あの鳥って何だろう。カモメみたいじゃない?」
「え。あぁ……あれはケリだよ。タゲリ。カモメじゃないよ」
立ち止まり、空を滑空するケリを見上げる。
そういえば、れんげ草以外で話をするのは学生の頃以来だ。
最後に話をしたのは、マンションの前だったか。当時何もできないでいた情けなさともどかしさで悔しかった思いが蘇る。
周りのせいで好きな事を辞め、挙句生きる事を辞めてしまった姉のようになってほしくなかったのだ。
「ねぇ、さっき美鈴さんに何か言いたい事があったんじゃないの?」
「あぁ、いや。別に……」
「もうっ。ほらほら、何?気になるじゃん」
西野君の背中を、気合を入れるように叩く。少し前につんのめった彼は諦めたように苦笑した。
「散歩」
「は?散歩?」
予想外過ぎる答えに、思わず聞き返してしまった。
「今度、散歩に行きませんかって」
なんだそれ。
それくらい言えばいいじゃん。……もしかして。
「まさか、デートってこと?」
デートのフレーズに反応するように、西野君が咳払いした。
「そんな。宇佐美みたいに、何でも積極的には言えないんだよ」
「ふぅん。まぁ……さぁ。良いんじゃん?れんげ草でいつでも会えるんだからさ」
私なら後押ししてくれると、少し期待でもしていたのだろう。
西野君の困惑したような表情から目を背けるように、私は再び歩き始めた。
「……あぁ、おいし」
お気に入りの座布団に座り、安物の珈琲と美鈴さんに貰ったクッキーを食べる。
狭い部屋の中央に置いたこたつが、風呂上がりの足をぽかぽかと温めてくれている。
窓の向こうでは、白い満月が夜空に月明りを滲ませていた。
スマホはテーブルの上にある。あんなにも雑な扱いをしていたスマホも、今は大好きな美鈴さんのクッキーの隣に置いている。
というのも、あの毒を吐き続ける元職場の友人、小村ともみからの連絡を絶ったのだ。
姉は人の悪口を言う人間を醜いと言っていた。
きっとそれは、黙って聞いている人間も同じなのだ。聞いているだけだから、私は言っていないから。
そんな言い訳をしながら、黙って聞いている人間もまたとても醜い。
きっと、ともみ自身も気付いていないのだ。
毒を吐き続ける人間を本気で好きな人はいない。
人が離れていくという事実を突きつける事もまた、きっと大事な事なのだ。
『麻友ちゃんもきっと本人なりに悩んでいるのかもしれない。そんな人の事を悪く言って楽しむともみの話に相槌はもう打ちたくない』
そのLineの返事は無い。既読だけが付いて、そのままだ。
「まぁ、もうこれで切れる縁なら、きっとそれまでなのよ」
呟きながら、砕いたチョコの入ったザクザクとした食感が美味しいクッキーを食べ、ほろ苦い珈琲に至福のため息を漏らした。
いじめを傍観する人間もまた同罪なのだ。きっと。
あの頃の西野君を助けられなかった自分もまた。
ふと、西野君の恋を応援できなかった自分に、一抹の罪悪感が芽生える。
「美鈴さんの事が好きなのか……」
高校入学したての頃。校舎裏の焼却炉にクラスメイトとごみを捨てに行ったとき、狐のあやかしが居た。
突然物陰から飛び出してきた狐に、思いっきり叫んでびっくした拍子に尻餅をついたら、周りにいた人達が不気味がっている中、たまたま近くに居た西野君が「大丈夫?」と小さな声で聞いてくれたのだ。
結構色々いる学校で入学当初から不可解な行動をとってしまっていたらしい私はその度に不気味がられていた。
幸い、何とか強引に明るさだけで誤魔化し、必死でクラスの中心になるようにすることで、多少の事があっても笑って済ませてくれるようになった。
自分の存在を誰かに認めてもらいたい、人の輪の中に居たい。
だがそんな私の気持ちとは正反対に、一人静かに戦い、自分の姿勢を崩さない彼を、いつしか目で追うようになっていたのだ。
あんなに耐えて頑張って来た彼には、幸せになって欲しい。
別に今更私とどうこうなって欲しいなんて思わないが、彼に対して今回の事は素直に応援できない自分が居た。
――西野君は気付いていないんだろうけど。美鈴さんは……
「はぁ……」
重いため息が、静かで狭い部屋に霧散した。
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