ダイサギ翔ける冬の朝
12月の朝。
れんげ草の店内の真ん中に置いた、円筒形のストーブを点けて1日が始まります。
みーこちゃんがまだ眠る中、アキは私が布団から出てくるのと同時に立ち上がり、こうして一緒に店へと降りてきました。
アキに朝ごはんをあげてから、私はキッチンに戻り、エスプレッソを淹れるマキネッタに珈琲粉を入れて直火にかけます。
コポコポコポ・・・
暫くしてそんな音が聞こえてこたら合図。
濃厚で苦味もある中に、珈琲豆の味も楽しめる。
朝からとっても贅沢なひと時。
キッチンの小窓から、葉を落としてすっかり冬の装いとなったポプラを見上げながら、深い青の空に薄いレモン色の朝陽が射すのを眺めていました。
「あのぅ」
午前7時30分。
みーこちゃんと朝食のベーコンレタスサンドと野菜たっぷりのスープを頂いて、ちょうど私が先に食べ終えた頃、お店の扉が開きました。
「あっ。マキさんですぅ!」
みーこちゃんはホットミルクを一口飲んで、マキさんの元へと駆けていきました。
「マキさん、おはようございます。あら、どうかしましたか?」
赤色のリュックを背負い、中学の制服姿のマキさんは、下唇を噛み締めながら俯いています。
「寒かったでしょう。中、入りますか?温かい紅茶でも淹れましょうか」
俯いたまま小さく頷いたマキさんの手を取ったみーこちゃんは「どうぞ、こちらに〜」とストーブのそばの席にご案内しました。
「朝ごはんは召し上がりました?」
温かいレモンティーを一口そっと飲んだマキさんは「はい」と、やっと弱々しい声で応えました。
みーこちゃんは残っていたスープを飲み、後片付けをしてくれている間、私はマキさんの座るテーブルの斜め前の椅子に腰掛けました。
今日は少し風が強いらしく、時折窓ガラスがカタンカタンと揺れています。
アキはそのたびに耳をピクつかせながらも、私の足元にぴったりとくっつくようにしてお座りしていました。
どれくらい時間が経ったでしょう。
ストーブの炎の音と、開店前の音楽の無い静かな朝のれんげ草に沈黙が流れます。
私とみーこちゃんは、ただマキさんが話してくださるタイミングを待っていました。
「私・・・もうここには来られません」
張り詰めた表情をしていたマキさんが、意を決したように口を開きました。
その言葉に、お皿を拭いていたみーこちゃんが「えっ」と短く声を上げ、それを見たマキさんも悲しそうに眉を潜めて再び俯いてしまいました。
「引っ越すんです。ここからずっと遠い街に。来年の3月には引っ越すみたいです。今朝、聞かされて・・・寂しくて飛び出してきて来ちゃったんです。今の学校の嫌なクラスメイトから離れられる嬉しさより、ここに来られなくなるのが寂しすぎます。私が1番自然にいられる居場所だったのに」
マキさんは震える弱々しい声でそう言って、リュックの紐に取り付けられた小さな赤色の時計を見ると、慌ててレモンティーを飲みました。
「学校、行かないと。ここ、学校から逆方向なんですよね。ごめんなさい、急に来ておいて慌てて出ていくなんて。今日からテストなんです。流石に休んだら叱られちゃう・・・」
すると、隣に座って見ていたみーこちゃんが「大丈夫ですよ!」と明るい口調で言いました。
「みーこはいつでもここに居ますからっ。マキさんが大きくなってからでも、何なら夏休みとかでも。絶対また会えますよぅ。それまでに、私も絵がうまくなるように、マキさんに自慢できるくらい上手になるように沢山練習します。マキさんも、沢山絵を描いて、見せに来てください!」
「・・・うん。そうだね。ありがとう、みーこちゃん。私、これからも沢山描くよ。西野さんみたいな本を作る仕事をする人も応援してくれて、ここに来て自信が持てたよ」
マキさんは教科書が入っているらしいズシリと重そうなリュックを背負って席を立つと、クッションでくつろいでいたアキの頭を撫でました。
「まだ引っ越すまで時間ありますし、また遊びに来ます。朝からお騒がせしました」
私が玄関ドアを開けると、商店街を吹き抜けてきた風が私たちの髪をふわりと巻き上げました。
マキさんと一緒に外へ出ると、ポプラの木のそばで写真家の堤 敏史さんが、上空にカメラを向けてシャッターを切っているところでした。
「おっ。もうお客さん入ってましたか」
堤さんがマキさんを見てから、腕時計を確認しました。
「空を撮っていらしたんですか?」
「あぁ。空って言っても、メインはダイサギでね。さっき向こうの田んぼにいて、一羽がこっちに飛んでったんで、他のも来るんじゃねぇかと張ってたんですよ。そしたらビンゴ。ポプラと空と一緒に撮れてね。ラッキーでした。君は初めましてだね」
マキさんは「あっ、はい。でも、来年には引っ越しちゃうんですけど・・・」と、リュックの肩ベルトを握る手にぎゅっと力を込めました。
「そりゃあいい!うん、うん!」
堤さんは短く揃えた顎髭を右手で撫で、マキさんはその反応に驚いた標準で眉をひそめています。
「色んな場所に行くのは良い事だ。世の中ってのは広い。思ってる以上に色んな人間もいるし、見えるものも違う。色んな世界を見るっちゅーのは、宝物を見つけるチャンスが増えるって事だ」
「宝物、ですか。私はここしか・・・」
「ん?君はノリ気じゃ無いのか。自分に合う場所や人なんてもんは、一歩踏み出さなきゃ見つかんねぇんだ。自分の心地良い場所はその一歩先にあるかもしれねぇ。自分を求めている人は、その先にいるかもしれねぇ。ネガティブな考えってのは自分の狭い脳みその中から生まれるもんで大抵は根拠がねぇんだ。経験から悪い方に考えるなんてのもあるが、世界の全てを知ってるわけじゃねぇんだから、そういうのは新しい場所では通用しねぇ。なら、ポジティブにさ。なんも考えんで飛び込んだほうが得ってもんだ。駄目だったらまた違うところに行きゃいい。なんなら戻ったって良い。執着する必要なんざないさ」
堤さんは、歯を見せてニカッと笑うと「いちいち居場所をよそに見つけようって気張らなくて良いんだ。なんなら、自分のいる場所を自分の居場所にすりゃいい。気楽にな」
そう言うと「あぁ、腹減った。入ってもいいですかい」と店を指差しました。
マキさんは堤さんと私達に「では、私は学校に」と会釈して、ぽつりぽつりとシャッターが開いて店の準備が始まった商店街の間を駆けていきました。
そんなマキさんの表情や声色が少し明るくなっている気がして、私は店に入っていく堤さんの大きな背中に感謝せずにはいられませんでした。
「朝のコーヒーってのは贅沢だねぇ」
堤さんが、コーヒーカップに鼻を近づけて幸せの唸り声をあげました。
「ダイサギの写真、楽しみですねぇ。双眼鏡を貸して頂いた時に見た地球照も感動しましたぁ。毎日見慣れた空も、じっくり見てみると色んな知らない事が沢山あるのですねぇ」
みーこちゃんは、厚切りの食パンにたっぷりの餡子とバターが乗った小倉トーストをテーブルへと運びました。
「下を向いていたら、虹は見えない」
おしぼりで手を拭いた堤さんは、トーストを手に取って言いました。
「世界の3大喜劇王、チャップリンの名言。俺が空ばっかり撮ってるのはね、下を向いて歩いている人に、今見てる世界じゃなくて見る場所を変えたら幸せはいっぱいあるって事を、俺の写真で気づいて貰えたらってね。これ以上の事はねぇと思うんですよ」
サクッという軽い音をたてて小倉トーストを頬張った堤さんは、うんうんと頷いて「程よい甘さ。美味しいです」と白い歯を見せる満面の笑みを向けてくださいました。
リン・・・
アキが堤さんの足元で顎を撫でて貰い、表情も緩みっぱなしになってくつろいでいる頃、西野宗介さんがいらっしゃいました。
「おはようございます」
開店すぐの時間にも関わらず、すでに食後でいらした堤さんをちらりと見た彼に、堤さんが笑顔で「どうも。初めまして。おはようございます」と店に声を響かせたものですから、西野さんは目を丸くしながら「お、おはようございます」と会釈しました。
「いらっしゃいませですぅ。ご注文はいかがいたしましょう」
そそくさとおしぼりとお水を持って現れたみーこちゃんに「じゃあミックスジュースと、この・・・クロックマダムをお願いします」
「かしこまりましたぁ。美鈴さーん、クロックマダムお願いしますぅ」
ピンクのエプロンを着けたみーこちゃんが、バナナ多めのミックスジュースを作ってくれている隣で、私はクロックマダムに使う食パンを取り出しました。
玉ねぎと鶏肉を炒め、バターと小麦を絡めます。
小麦粉を加えて粉っぽさが無くなれば牛乳を。
塩コショウ、コンソメも少し加えて味を付けたらクリーム煮の完成。
食パン二枚用意をしたら、ハムと三分の二の量のクリーム煮を挟んでサンドしたら、一番上にも残りのクリーム煮を乗せましょう。
最後に卵とチーズを乗せて、バジルも散らしてトーストします。
卵がとろり、クリームソースもとって美味しいクロックマダムの完成です。
先にミックスジュースを飲んで待っていらっしゃる西野さんのテーブルにお持ちしました。
「へぇ、美味しそうですね」
隣のテーブルから、堤さんが声を掛けました。
西野さんは、少し恥ずかしそうにはにかみながら「美味しいですよ、とっても」と言いました。
「僕はいつも食事時にここに来る時は決まって小倉トーストなんですが、今度はクロックマダムとやらを頼んでみるとしましょう」
「ふふっ、是非。でも、小倉トーストも私の好きなお料理なので気に入って下さってとても嬉しいですよ」
「えぇ、えぇ。何だかねぇ、ここの餡子は私の死んだお袋の作っていたものに似てるんですよ。小豆の味がしっかり感じられて、優しい甘さが効いてる。歳取ってもぐつぐつぐつぐつと、時間をかけて台所に立っていたお袋の小さくなった後ろ姿が目に浮かぶんです。って、へへへ。おっさんが不気味ですかねぇ」
「あら、素敵なことだと思います。そんな大切な想い出の味と似ているなんて光栄ですわ」
「きっと、さっきの女の子のお客さんも、遠くに行ってもここの味を覚えてると思いますよ。またここに来ようって、色々頑張れるんじゃねぇかなあ。それくらい、料理も居心地も良い場所です。みーこちゃんも、こんなちっこいのによう働くし、偉いもんだ」
「ちっこい」という言葉に反応したみーこちゃんが「みーこは見た目は小さくても、大人のれでぃなのですよぅ」と頬を膨らませ、堤さんは「あぁ、そうか、そうか。こりゃ失礼した」と自身の額をぺちんと叩いて、しまったという表情で笑いました。
「女の子のお客さんって・・・」
てっぺんの目玉焼きを崩して黄身を絡めながら召し上がっていた西野さんの手が止まりました。
「マキちゃん、どこかに行っちゃうんですか?」
「まだ少し先なのですけど、お引越しされるそうです。遠い町のようで、ここに来られるのももう少しだからと、今朝いらっしゃったんです」
「そう・・・ですか」
「でも、絵たっくさん描いて、いつかまた見せてくださいって約束したんですよぅ。だからきっと大丈夫です~」
みーこちゃんがカウンター席に座って浮いた両足をぱたつかせながら嬉しそうに言います。
「時には外の世界を見てくるってのも大切だからなぁ。良いことも悪いことも全部ひっくるめて経験だ。つらいことも乗り越えて自分のものにしてやった時は成長の時だ。マキちゃんて子も、きっと色んな刺激を受けて絵もどんどん上手くなるさぁ。帰ってくる場所があるってだけで頑張れるもんさ」
お皿を片付けていた私に堤さんが「ねぇ、そうでしょう」と目を向け、私も頷き返しました。
それから暫くして、神社のある丘陵から写真を撮りに行くと、堤さんは意気揚々と帰って行かれました。
冬の薄い日差しが、窓際から少し離れた西野さんのテーブルに小さな陽だまりを落としています。
ボサノバが軽やかにメロディを奏でる中、アキがひとつ可愛らしいくしゃみをしました。
「みーこ、アキのお散歩に行ってきますぅ。西野さん、ゆっくりしていってくださいねぇ」
首輪にリードを着けてお散歩バッグを持ったみーこちゃんも、「早く早く」と急かすように息荒く尻尾を振っているアキと一緒に商店街の道を駆けて行きました。
再び静かになった店内に、店の周りで鳴くチュイッチュイッとハクセキレイのさえずりが聞こえてきます。
西野さんは本を読んでいらしたので、私はキッチンの中の椅子に腰かけて、その声に耳を傾けていました。
「嘘、なんです」
窓からセキレイがちょんちょんと地面の上を小走りしているのが見えて観察していると、西野さんが弱弱しい声で呟きました。
「マキちゃんに、出版社に勤めてるなんて言って、偉そうに期待させるような事言いましたが・・・本当は違うんです」
本を閉じた彼は、俯いて嘆息しました。
「でも、絵を辞めてほしくなかったから・・・。出版社に勤めてる人から褒めてもらえたら嬉しいだろうなって。嘘ついてたのに、今までずっと黙ってて」
彼は底に僅かに残ったミックスジュースを飲み干しました。
「その嘘は、悪い嘘でしょうか」
私はお盆を手に西野さんの向かいの席に腰を下ろします。
「え・・・」
「嘘だったにしても、西野さんの気持ちは本当でしょう?学校に居場所を無くして、自分の好きな事にも自信を無くしかけていた女の子の背中を押す事は簡単なことじゃありませんよ。今朝も、西野さんが応援してくれたから頑張るって仰っていましたから」
「そう、なんですか」
「えぇ」と私が頷くと、西野さんは日差しに頬をほんのり赤らめながら俯きました。
「み、美鈴さん」
「はい」
「その・・・」
慌ててかぶりを振った彼は居住まいを正して、話題を変えるように
「宇佐美さんって、最近来てますか?」
と、少し上ずった声で言いました。
「えぇ、来ていらっしゃいますよ。時間はバラバラですけど、もしかして西野さんを待ってらっしゃったのかしら・・・」
以前いらした時に、ドアが開くたびに誰かを待っているような素振りをしていらっしゃった事がありました。
「僕、彼女にも学生の時に色々気にかけてもらっていたんです。当時は周りが見えてなくて全然気づいていなかったですけど。今更だけど、ちゃんとお礼も言いたくて。それに聞きたいこともあるので・・・」
その時でした。
リン
「おはようございますって、あっ!」
いらっしゃったのは、宇佐美さんでした。
「えっと・・・西野君は今日仕事休み?最近会ってなかったからどうしてるのかなぁって思ってたところだよ。ん~、美味しい。美鈴さん、今日も良い珈琲ありがと」
「いえいえ。喜んでいただけて光栄です」
宇佐美さんと西野さんが座るテーブルには、淹れたばかりの珈琲が柔らかな白い湯気を立ち上らせています。
お互いが話したい事を切り出すタイミングを伺っているようで、お二人ともどこか落ち着かない様子でそわそわしていらっしゃいました。
「あのさ――」
「西野君は――」
「あ、いや。ごめんごめん。いいよ、西野君。何?」
「あぁ、うん。えっと・・・今更かもしれないんだけどさ、高校の時さ。僕の事すごく気にかけてくれてただろ。宇佐美のマンションまで連れていかれてさ。『西野君も頑張って』って。『悪いことしてないんだから堂々としろ』ってさ。当時は余裕が無くて・・・ごめん。ありがとう。実はああやって声をかけてくれた事、心のどこかでは嬉しかった、と思うんだ。あの時期を超えられたのは宇佐美のおかげもあったよ、きっと」
すると「えーっ、ほんと?」と、宇佐美さんの気が抜けたような笑い声が店内に響き渡り、クッションでうとうとしていたアキがビクッと飛び起きて何事かと言うように目をまん丸に見開いています。
「あの時の西野君の顔覚えてるよ~?あははっ、気使わなくて良いって!全然嬉しそうじゃなかったよ。まぁ、まぁでもそっか。覚えてくれてたんだ。あの頃の西野君、他人事に思えなくてさ。私もその時って色々あってさ、結構きつくて。西野君、今にも消えちゃいそうだったんだもん」
「あぁ、まぁ・・・確かに居場所が無いって思ってたから、それは間違ってないかも。でもさ、最近ふと気になったんだ。あの後いつの間にか虐めが無くなったんだよ。もしかして、宇佐美が何かやってくれたのか?」
宇佐美さんは「あぁ」と思い出したように苦笑いしました。
「私は大したことはしてないんだけどね。虐めてたやつらの先輩とかさ、色々お願いして辞めるように根回ししてもらったんだ。でも、あの頃もっと出来ることがあったんじゃないかって思ってたんだ。ここで再会した時、絵辞めちゃったって言ってたでしょ?つらい事を乗り越えるには生きがいって大事だと思うんだ。それを虐めのせいで辞めちゃったなら、すごく辛かっただろうなって。それがずっと気になって謝りたくて、最近西野君を待ってたんだよね」
「いや、絵を辞めたのはそのせいじゃないよ。確かにあれが原因で辞めた時もあったけど、あの後もう1度描いていた時期もあるんだ。だから、違うんだよ。宇佐美に謝られるような事なんて、何にも無いんだ」
宇佐美さんは西野さんの言葉に、安堵かの笑みをもらすと、くすくすと肩を揺らして笑いました。
「西野君、めっちゃ喋るじゃん。あー、良かった。そっかぁ。あんなに壁が分厚かった西野君がこんな風になれたって事は、良い事もあったんだね、きっと」
「そ、そうかな。でも最近だよ。これでもまだ、リハビリ中なんだ。まだ、オドオドするのが抜けきらないけど・・・少しずつ昔の自分から変わりたいと思ってる」
そう言ってキッチンに座っていた私と目が合った西野さんは、恥ずかしそうに微笑んでいました。
「あ。そろそろ行こうかな。運送会社のバイト、今日が最終日なんだよね。次の新しいバイトどうしようか悩んでたんだけど、ちょっと頑張ってみようかって思えたよ。じゃ、またね」
「まっ待って」
「えっ、何?」
立ち上がりかけた宇佐美さんが、再びゆっくりと席に腰を下ろしました
「マンションに連れて行ってくれた時『私も頑張るから』って。あの時の表情が気になって・・・。宇佐美にも何かあったのか?宇佐美も本当は辛い事があったんじゃないか?」
「あぁ・・・えっと。んー・・・」
「ご、ごめん。調子に乗ってつい・・・。言えない事もあるよな。本当ごめん」
「いや。ううん。そっか、バレてたんだ。えっとね。あの頃、私の8歳上の姉が亡くなったんだ。原因は職場での虐め。毎日暗い顔して帰ってきてたのに何も出来なかった。唯一の趣味だった絵を描く事も気力を無くして出来なくなってた。そしたらある日、ぷつんと糸が切れちゃったのかな。死んじゃったんだ。当たり前に目の前にずっといた人が、呆気なく居なくなっちゃう。父親もね、小さい時に事故で死んじゃってて。でもやっぱりきつかったな。・・・今でも悲しさは変わらないんだけどね」
パンパンと2度手を叩いた宇佐美さんは
「はいっ。美鈴さんもごめんねぇ。柄じゃないわ、やっぱりさ」
宇佐美さんのうっすらと赤みがかった瞳には、必死に堪えた涙が浮かんでいるように見え、私は思わず彼女に駆け寄り、抱きしめてしまいました。
「えっ、ちょっと。なになに、美鈴さん、どうしたの?!」
「宇佐美さん、泣きましたか?」
「えっ?」
「お姉さんが亡くなってから、泣きましたか?」
「えっ・・・と、それは・・・あれ?ちょ、やだな。あれれ、ほんと、どうしよう」
瞳の中で堪えていた涙がひと粒こぼれ落ちると、歯止めが効かなくなった涙が溢れるように、次々と頬を伝い、私の肩にぽたぽたと流れ落ちていきます。
「泣くことも大切なんですよ。人は泣いて、初めてその出来事に向き合えるのです。感情というのは、堪え続けると自分を壊してしまいますから」
宇佐美さんは堰を切ったように、わあわあと泣いておられました。
長い間溜め込んできた、後悔や悲しみを吐き出すように泣く宇佐美さんの背中を、私はそっと撫でていることしができませんでした。
「美鈴さん。あの・・・」
玄関ドアに手をかけようとしていた西野さんが、緊張した面持ちで振り返りました。
「僕はここに来るようになってから、随分変わることができました。ま、まぁ・・・あまり変わってないように見えるかもしれませんが、心のほうは、良い方向に変わりました。ありがとうございます」
「あら、それはとても嬉しいです。最初の頃より、随分とお相手の方の目を見てお話しできるようになりましたよね。西野さんがご自身の過去と向き合って頑張ったからだと思いますよ。それに、西野さんが来てくださる事が、私の、もちろんみーこちゃんにとっても助けになっている事もあるんですよ」
「助けだなんて・・・」
西野さんは恐縮した様子で肩をすぼめる仕草をしました。
「西野さん、心は軽くなりました?」
私の言葉の意図が分からない彼は
「え、えぇ。かなり。宇佐美と話せたのも大きいかもしれませんけど・・・それが何か?」
と、少し戸惑った表情で答えました。
隣に立っていたみーこちゃんが私を見上げて満面の笑みを見せます。
「お客様の心が晴れる事が、私たちの何よりの願いですからねぇ。ねぇ、美鈴さん」
「えぇ。そうね」
アキが、西野さんの足元で尻尾を軽快に振って無邪気に微笑んでいました。
「マキちゃんに嘘ついたって言ってた仕事の事なんですけど・・・本当は児童養護施設で働いてるんです。出版社で勤めてるなんて嘘ついた事に罪悪感はあったんですけど、今の仕事には誇りを持ってるんですよ。色々大変な仕事ですけど、色んな境遇の子供達に、ほんの少しでも力になれたらって思ってるんです」
店先で西野さんは、晴れやかな優しい表情を見せてくださいました。
「応援しています。西野さんにしかできない事、西野さんでなきゃいけない事がきっとあります。もしまた悪意のある言葉に出会っても惑わされないで。人の一生はとても短い。人の生きる道は、周囲の人の人生もまた絡み合います。あなたが笑顔でいることが、隣にいる人も笑顔にできる。つらい時は打ち明けて、助け合う。そうして互いが成長できる。このれんげ草だけでなく、宇佐美さんのような良いご友人を大切にして。他人は変えられなくても自分は変えられますよ」
私は彼の手を取り、お土産用にラッピングしたジャムクッキーをお渡ししました。
「・・・はい。ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」
西野さんは黒いコートの襟を正し、グレーのカシミヤマフラーに口元を埋めると「また来ます。ごちそうさまでした」と、商店街を歩いて行かれました。
「美鈴さぁん。西野さんとまたお話しできますか・・・?」
一緒にお見送りに出ていたみーこちゃんが、足元で心細い声をあげました。
「それは、わからないわね・・・。でも、ここに来られなくなるという事は、彼の悩みや苦しみが無くなったという事。それは、一番彼にとって良いことだから」
「そうですね~。でもやっぱりみーこは寂しいです。ねぇ、アキ」
みーこちゃんの足に体を寄せてお座りしていたアキが、あうっと返事をするように喉を鳴らしました。
冬の午後の路地裏商店街に、母親と買い物に来た幼い兄弟のはしゃぐ声が響き渡ります。
西野さんの後ろ姿が小さくなり、やがて角を曲がる。
――どうか。どうか皆さんの心が、ここに来ることで少しでも晴れますように。
ほとんど落葉して、わずかに枝にぶらさがる葉を揺らすポプラの向こうには、透けるような薄雲の淡い空色が広がっていました。
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