オリヴァーの心に触れて

 アデリナがオリヴァーの下で働き始めてから二ヶ月が過ぎた。そこでようやくオリヴァーから直々に、洋裁の技術を学べることになった。


 とはいえ、アデリナは淑女教育の賜物か、刺繍ができる。それもあって、アデリナの縫い物の腕は少しずつ上達していった──。


 ◇


「アデリナ、この服の補修を頼めるか?」

「はい!」


 オリヴァーから渡されたのは、男性用のシャツだ。


 アデリナは袖の部分を両手で持って広げ、修繕する部分を確認する。


 ボタンが引きちぎられたのか、いくつか無くなっていて、その部分の布が引き攣れていた。


「これ……どうしたんですか?」

「それが、どうやら掴み合いの喧嘩をしたようだ。だから上の方だけボタンが取れたんだな」

「へえ、そうなんですか。でも、珍しいですね。裕福な方はシャツを使い捨てにしそうですが」

「ああ。貴族の富裕層は割とそうだな。だが、平民の富裕層はそうでもない。貧しさを知っているから、物を大切にする方が多いんだ。だからこうして修繕の仕事もちょくちょく入る。ありがたいことだよ」

「なるほど」


 話しながらもアデリナは椅子に座り、針と糸を取り出し、ボタンを縫い付けていく。まだまだ手つきは危なっかしいが、見れないほどではない。


 オリヴァーが腕を組んで感心したように言う。


「てっきり縫い物は苦手だと思っていたが、意外にうまいな」


 それにはアデリナが苦笑する。


「意外には余計だと思います。でも、まあ、当たってないこともないです。淑女教育で刺繍は必須ですから。布を真っ赤に染めながらも続けた結果ですね」

「ああ、なるほど。よほど指を刺したんだな」

「そういうことです。それに、今も孤児院の慰問で刺繍入りのハンカチなどを贈ることもありますから」

「そうか。ちゃんとやってるんだな」

「はい。それが条件ですから。一つでも破ったら、その時点で仕事を辞めないといけなくて……」


 話しながらでは難しくて、アデリナの声が自然に途切れる。それだけ手元に集中している証拠だ。


 しばらくしてボタンを付け終わり、アデリナが顔を上げると、まだオリヴァーがそこにいた。


 驚いたが、アデリナの手つきが危なっかしいので心配してくれたのかとアデリナは苦笑する。


「やっぱり心配でした? もうあんまり指を刺すことはないのですが」

「ああ、いや、そうじゃなくて。何でそこまでできるのかと思って。貴族社会に嫌気がさしたといっても、結局今は、それもこなしながらこうして仕事をしないといけないだろう? 以前よりも大変だし、やめたくはならないのか?」

「やめたく、ですか……ならないですね。忙しいですが、すごく充実していますし。それに、私はやっぱり子どもだったんですね。与えられるものに満足できずにダダをこねるだけの子ども。現実を変えたいって思っても、何もできずに不平不満を言っていただけなんです。まずは自分が動かないと駄目だって、オリヴァー様や、クラリッサさんのおかげで気付けました。だから、やめたくはないです」

「そうか」


 オリヴァーは目を細めてアデリナの頭を撫でる。オリヴァーは折に触れてこうしてアデリナの頭を撫でるのだ。


 最初は子ども扱いされているようで嫌だったが、その手つきが優しいことや、やっぱり好きな人に触れられるのは嬉しいので、アデリナはこうして受け入れている。


「それに……」

「ん?」


 これはさすがにオリヴァーの目を見ては言えない。それでも言わないと伝わらないと、アデリナは俯き加減で言う。


「……オリヴァー様とこうして一緒に過ごせるのは、あと四ヶ月ほどしかないんです。だから、一日でも無駄にしたくはありません」

「アデリナ……」

「もし、やっぱり振られたとしても、いろいろな面で頑張った思い出は残ります。それは私にとって貴重な経験になると思うんです」


 子どもなりの精一杯の努力。大人になったらきっとあんなこともあったと懐かしく思える日がくるかもしれない。そのためには手を抜いてはいけないと思うのだ。


「……そうだな。それなら俺もそれまでの期間、アデリナの頑張りを見守ろうと思う。その先のことはまだわからないが……」

「あ、私を受け入れないといけない、とは思わないでくださいね。これは私の問題であって、オリヴァー様の問題ではありませんから」

「そう、か?」

「そうです」


 オリヴァーは首を捻っている。アデリナが好きなのはオリヴァーだから、オリヴァーは自分も関係あると思っているのかもしれない。


 だが、それは違うとアデリナは思う。その人の気持ちは誰かが決めるものではない。アデリナが受け入れて欲しいと思ったところで、オリヴァーの気持ちが動かなければ意味がないのだ。


 誰かに強制された感情は、その人本来の感情じゃない。だから、アデリナの問題であって、オリヴァーの問題ではない、そういうことだ。


「……ちゃんと自分の子どもの部分を認めて、その上で反省して前に進めるのはすごいと思う。俺にはできないから尊敬するよ」

「え、オリヴァー様が?」


 オリヴァーに子どもの部分なんてあるのだろうか。アデリナが目を瞬かせてまじまじとオリヴァーを見ると、オリヴァーは苦笑した。


「年齢だけ重ねても大人とは言えないだろう。俺だって、現実を変えたいと思っても変えられなくて、諦めたことがあるんだ」

「オリヴァー様が変えたかった現実って、どういう……」

「それは……すごくくだらないことだよ。もう、今となってはどうでもいいが」


 オリヴァーの表情が曇る。どうでもいいと言いながらも、そうではないとその顔が物語っていた。


 こんな時どうすればいいのか、アデリナにはあまり経験がないので悩む。それなら自分がされて嬉しかったことをしてみよう。そう思ったアデリナは、オリヴァーに言う。


「オリヴァー様、こちらに座ってください」

「あ、ああ」


 唐突に話が変わったアデリナに、戸惑いを見せながらも頷いたオリヴァーは、アデリナの隣にある椅子に座った。


 そうするとオリヴァーとの身長差が無くなる。アデリナは手を伸ばしてオリヴァーの頭を撫でる。オリヴァーも少し髪に癖はあるが、柔らかくて気持ちがいい。


「ア、アデリナ? どうしたんだ?」

「いえ、言葉よりはこちらの方が伝わるかと思って」

「何がだ?」

「先程オリヴァー様は、変えたいと思っても変えられなかった、と言ったので、きっと変えるためにすごく努力したんだと思います。でも、変えられなかった……」

「努力したかなんてわからないだろう。俺も何もできずに不平不満を垂れ流していただけかもしれないぞ?」


 オリヴァーは双眸を眇める。それがどこか挑発的に見えながらも、信じて欲しいと懇願しているようにアデリナには感じられた。


 アデリナは首を左右に振る。


「オリヴァー様は努力してこのお店をここまでにした方です。何もせずに諦めたとは思えません。きっと何か事情があるのだと私は思います。ただ、無理にそれを暴こうとは思いません。ですから、言葉の代わりに私はあなたを信じますと頭を撫でるだけに留めてみました」


 アデリナが説明すると、オリヴァーはしばらく呆気にとられていた。それから声を立てて笑う。


 そんなオリヴァーの反応が意外で、アデリナは戸惑う。


「え、え、何で? 私、そんなにおかしなこと、言ったのかしら」

「いや、ごめん。頭を撫でるだけに留めた割に、ちゃんと律儀に説明してくれたから。結局全部話してるじゃないか、って思わず突っ込みそうになったよ」

「はっ、言われてみればそうですね!」

「ははは!」


 オリヴァーは更に笑いを深める。今度はアデリナが呆然とそんなオリヴァーを見ていたが、その顔から険が取れているのに気づき、釣られて笑い出す。


「本当に私はどうしようもないですね」

「いや、そんなことはないよ。嬉しかった、ありがとう」

「お礼なんて……」

「いや、言わせてくれ。結果が全てで、変えられなかったから努力が足りなかったんじゃないかって悩んだんだ。だが、結果はどうあれ、足掻いて努力した事実は確かにあった。それをアデリナがわかってくれたことがすごく嬉しい。きっと子どもだった俺も喜んでいると思う」

「それはお互い様です。こうしてオリヴァー様が私の頑張りを認めてくださってることが私も嬉しいんです。ありがとうございます」

「いや、こちらこそ」

「いえ、こちらの方が」


 お互いがお互いに感謝しあっている様子を、後から来たクラリッサに見られ、また二人の世界を作っているとからかわれるのだった。

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