帰宅者
松長良樹
帰宅者
――異様なほど暑い日だった。まるで脳みそが茹るほどの暑さだ。
その日は夕方になっても外気は熱風で、いつの間にか日本の緯度が南にずれてしまったようだった。
今日は俺にとって貴重な休日である。
夕方から買い物に行くなら少しは涼しいかと思ったが、蒸し風呂に入ったように大汗をかいて俺は雑誌と米を買って家に戻ってきた。
そして米を砥ぎ炊飯器のスイッチを入れる。時計を見るとそろそろ女房の帰る時間だ。
間もなく「ただいま」という声がして女房が帰ってきた。「おかえり」という返事をして、俺は新聞とテレビとを同時に見ていた。黙って女房が二階に上がる。
およそ一分が経過して俺は、はじめて(おかしいな)と思った。
普段とは何かが違うような違和感があった。この暑さの中で汗ひとつかいていないなんておかしな話だ。
いつもならまず女房は「疲れたーっ」と言う。それから「ご飯炊いてくれた?」と続き「もうやってられない」という仕事の愚痴が出る。
そして今日の出来事の報告だ。大体相場が決まっている。(今日は省略かな)と俺は思った。
体調が悪いのかも知れないと俺は推測した。俺はサービス業なので平日が休みだ。なので俺達はすれ違い夫婦だ。平日はいつもこうなる。
女房が二階に上がったっきり降りて来ない。いつもなら食事の支度にそろそろ取り掛かる頃だ。俺は仕方なく二階に上がってドアを開けた。
「どうしたのよ。なあ、晩飯つくらないのかよ」
そう言って女房の様子を見たが答えがない。
――俺が寝室で見たものは、暗闇に佇む不気味な女房の姿だった。座布団の上に正座し何にも無い壁を凝視している。いや、見ているとも言えない。ただ虚ろな表情のまま明かりもつけず闇の中で正座している。服を変えた様子すらなかった。
「どうしたのよ。大丈夫かよお」
俺はそう言って一歩寝室の中に足を踏み入れた。瞬間、ひんやりとした冷気が素足に絡みついた。ゆっくりと女房が俺を振り返った。
その顔には表情が無かった。氷のような瞳はまるで何も映してはいなかった。
瞬間、本能が自然に察知したような途方もない違和感が俺を襲った。
今までにこんな表情の女房を俺は一度でも見た事があったろうか……。まるでデスマスクを貼り付けたような女房の顔。
その顔には血の気が全くなかった。
眼は落ち窪み、眼の淵に暗い隈が出来ている。俺はその瞬間まるで超常現象が日常的に頻発する魔界に迷い込んだような感覚を覚えた。女房がゾンビ化しているのだ。
「あのさあ……」
その後の台詞が俺の口から出てこない。全身が凍りつき、ぞーっとしたものが背筋に走る。(何を話してもむりだ)俺は直感的にそう悟った。
俺は静かに下のリビングに降りた。ソファに座ったが全く落ち着けない。(悪い病気だ、伝染病か、結核かまさかエイズ)俺の思考が悪い方に転がりだした。(どうしたらいい、医者か、救急車か、警察か)思考の収集が付かない……。
荒涼とした荒野に吹く風が心の中にまで吹いてきたような気がした。
その時だった。
「ただいま」と言う女房の声がした。自分の持つ鍵で家に入ってくる。
「疲れたーっ」そして「ご飯炊いてくれた?」が続き、「もうやってられない」という。
仕事の愚痴がでた。いつも通りだ。
「どうしたの? 蒼い顔しちゃって、食あたりでもしたの」
女房が額の汗をぬぐいながらちょっと笑顔で俺にそう聞いた。
俺はというと茫然自失。顔面蒼白で細かい震えに全身を襲われていた。
「おまえさあ、さっき帰ったばかりだぞ。二階に上がったじゃないか。なんで又帰ってきたの」
そう言う俺の声は上擦り震えていた。
「なによ、訳わかんない事言って」
女房が二階に上がった。それを止められない。止める理由が無い。二人の女房が対面するのかと思うととてつもなく怖くなった。
俺の心臓は早鐘を打ち鳴らして爆発しそうだった。女房は双子じゃない。生霊か、それともまさかドッペルゲンガー……。
階段を上がる女房の後ろ姿を見上げた時、がたんという音が背後でした。押入れの中からだ。嫌な予感がした。
この不条理な出来事は女房の身の上にだけに起こったのか?
暗い妄想のようなものが俺の脳裏に浮かび上がった。
こんな馬鹿な話な無いと俺の理性が否定をする。確かめようと思った。確かめずにいられるはずもなかった。
俺は覚悟をきめて押入れの戸を思い切り開け放った。
真っ青な顔の俺と瓜二つ、分身のような男が押入れの闇の中に蹲っていた。
「あんた、誰なんだ……」
暗い湖底でも覗き込むような瞳。その手に握りしめた包丁が、がたがたと震えていた……。
了
帰宅者 松長良樹 @yoshiki2020
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