港町にて

「それじゃあ今日は別行動にしよう」


 翌朝皆で朝食を済ませると、マインラートはそう告げた。コンラートが首を傾げる。


「それは構いませんが、お二人はどちらに行くつもりですか?」

「私はアイリーンと歩きながら決めようと思うが、どうだ?」

「ええ。せっかく港町まで足を伸ばしたのですから、普段見られないものを見るのも楽しそうです」


 わたくしたちは旅行ついでということもあって、少し遠回りにはなるけれど港町まで足を運んだ。シュトラウス領から王都まで正規の街道を通れば海が見えない。幼いウィルフリードにも海を見せてあげたかったのだ。


 今度はマインラートが尋ねる。


「それでお前たちはどうする?」


 コンラートは少し考えてユーリに尋ねる。


「ユーリはどうしたい?」

「そうねえ。ウィルフリードに海を見せてあげたいから、海岸沿いはどうかしら? 砂浜で遊ぶのもいいと思うの」

「じゃあそうしようか。ということで、夕食は一緒にとりますか?」

「そうだな。じゃあ夜に宿で待ち合わせて夕食を食べに行くか」


 という感じでトントン拍子に話は進んで別行動になったのだった。


 ◇


「潮の香りがすごいな」

「ええ。この香りはすごく久しぶりです」


 二人で港へ向かって歩いていると、次第に潮の香りが強くなってきた。


 ブリーゲル領も海はなかったけれど、ずっと昔に弟が両親に強請って連れてきてもらったことがある。あの時は初めて見る海に驚いたものだ。ただ、ほとんどの時間を独りで過ごしたという苦い記憶も一緒になっているけれど。


 マインラートは意外そうに言う。


「君も海は初めてじゃないのか」

「ええ。昔、家族で来たことがあります」

「そうか……」


 マインラートはそれ以上は言わずに、わたくしの手を繋ぐ。


「どうしました?」

「いや、人が増えてきたから、はぐれないようにと思って」

「確かにそうですわね。船乗りの方が多いのでしょうか」


 見回すと屈強な男性が多いように思う。その合間にちらほらと騎士や貴族、町民が混じっている。


「いや、そうでもないよ。こちらは商人も多いんだ。陸路ではなく海路を使った方が便利な場合もあるからね。ただ、海賊もいるし、海が荒れることもあるから危険ではあるんだが」

「そうなのですか。詳しいのですね」


 わたくしが感心すると、マインラートは苦笑する。


「私も商人の端くれだからね。仕事でこちらに取引に来たことがあるんだよ」

「……そんなこと、ありましたか?」


 マインラートが商業に力を入れ始めたのは結婚後だったと思うけれど、わたくしには覚えがなかった。


「……あの頃は私たちの間に会話らしい会話がなかったから、君が知らなくても当然だよ」


 寂しそうな声音のマインラートに胸が痛む。わたくしがちゃんとマインラートと向かい合っていれば知り得たことだ。失った時間を戻したいと思っても戻ってこない。


「……あなたと色々な思い出を共有したかった」

「……私もだ。だからもう、後悔しないように日々を大切にしよう」

「ええ」


 それからマインラートに港や商業についての話を聞きながら歩いた。最初はつまらないだろうからとマインラートが話を止めようとしたけれど、わたくしが聞きたいとせがんだのだ。過ぎた時間を埋めることはできなくても、彼と同じ世界を見られるような気がしたから。


「……聞いてもいいか?」


 不意にマインラートがわたくしに尋ねた。急に話が切り替わったことが不思議だったけれど頷く。


「君の子どもの頃のことが知りたい。どんな風に育ったのかとか、何が好きだったのかとか」

「え? ええ。それは構いませんが、急にどうしたのですか?」

「さっき君が、昔ここに来たことがあると言っただろう? 私はそんなことも知らなかった。その頃の君ともう会うことはできないが、知ることで思い出を共有できる気がして」


 そのマインラートの言葉に思わず笑ってしまった。夫婦というのは似てくるのだろうか。マインラートは笑うわたくしに不思議顔だ。


「どうしたんだ?」

「いえ、わたくしと同じようなことを考えていらっしゃるから。先程あなたがつまらないだろうと止めようとした話ですが、その話を聞くことであなたと同じ世界を見られたような気がして嬉しかったんです」

「そうなのか」


 マインラートも嬉しそうに笑う。思えばこんな話をしたこともなかった。いつも夜会の打ち合わせだ、商会で扱う商品についての説明だと、事務的だった。


「それで、わたくしの子どもの頃ということですが、例えばどんなことですか?」

「そうだな……じゃあ、好きだったものは?」


 問われて、思い出すように視線を宙に彷徨わせる。あの頃の心の支えは本だった。


「……あの頃は物語が好きでした。わたくしも女ですから、恋愛の物語に憧れました。いつか王子様が、なんて思っていたこともありましたわね」


 懐かしさに目を細めて笑う。まだ少女だった頃の夢だ。あれから色々なことがあって現実を知り、その落差にがっかりもした。だけど──。


「あの頃は現実を見ることが嫌で物語に逃避していたのかもしれません。だから主人公に自分を重ねて、いつかわたくしを救い出してくれる男性を求めていました」

「アイリーン……」

「ですが、今は思うのです。わたくしは不幸な自分に酔って自分から助けを求めようとしなかった。声を上げなければ相手には伝わらないでしょう? わたくしは勘違いしていました。物語のように黙っていても助けはくるものだと。それに、わたくし自身に現実と戦う意思がなければ、誰も手助けはしてくれません。わたくしは強くならなければいけなかったのです」


 わたくしは結局、守られるだけの主人公にはなれそうにない。現実はそんなものではないと知ってしまったのだから。


 マインラートも頷く。


「確かに言ってくれないと手助けはできないな。だからこれからは助けが欲しい時はちゃんと言ってくれ。私では頼りないかもしれないが」

「いえ、心強いです。考えてみれば、わたくしはあなたと初めて会った時にこの人がわたくしの王子様だと思いましたから」

「……君を追い詰めた最低な男だがね」


 苦笑するマインラートに、笑って首を左右に振る。


「あなたはわたくしを救ってくれました。心の支えになってくれて、コンラートを与えてくれて、今もこうして一緒にいてくださいます。わたくしは自分で自分を追い詰めたのです」


 傷つきたくないからと自分の殻にこもって、相手の気持ちを聞こうともしなかった。わたくしはずっと無視されるのが辛いと思っていたのに、相手に同じことをしていたのだ。


「……私もだ。家を捨てたいと思ったこともあったが、純粋な愛情ではなかったとしても、君とコンラートがいたから頑張ってこれたところが大きい。自慢できる方法ではなかったし、その結果君やコンラートを傷つけることにもなってしまったが」

「……選べなかったのです。ご自分を責めるのはやめてください」

「ああ」


 マインラートは頷くけれど、その表情は暗い。自分を責めるなと言ったところで無理なのだろう。だから、それ以上はそのことについて話すのはやめた。


「そうそう。昔こちらに来た時なんですが、護衛と一緒に砂遊びをしたんです。最初は護衛が汚れるからおやめくださいなんて言っていたんですが、やり始めると一緒に砂まみれになってました」

「へえ……それなら一緒にやってみるか。もしかしたらコンラートたちもいるかもしれないし、皆でやるのも楽しいだろう」

「ええ、いいですわね」


 そうして砂浜に行くと、コンラートたちがいて、一緒に砂遊びをした。コンラートを遊ばせたこともなかったことに気づき、今更ながらに自分が大切なものを見る機会をたくさん失ってきたことに気づかされた。


 あの時ああしていれば、こうしていればと後悔することがあり過ぎて辛い。やらない後悔よりはやって後悔する方がいいと改めて思った。

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