フィリーネの本心

 わたくしは何も知らなかった。マインラートとレーネ様の娘は交流があったのか。マインラートは自分に娘がいることを知らなかったと言っていたのに。


 もしかして今もレーネ様と交流があるのでは。疑い始めた心は加速的に疑いを強めて行く。


 わたくしは騙されていたの?

 違う。わたくしが結婚後も自由にすればいいと言ったのだ。マインラートは悪くない。


 自分を責める気持ちの中に彼を責める気持ちが見え隠れする。だけど、わたくしはそれに気づいてはいけない。


 ──全てはわたくしが悪い、のだ。


「アイリーン様?」


 フィリーネ様の声で思考が途切れた。

 そうだ、惑わされてはいけない。わたくしはコンラートの守りたいものを守ると決めたのだから。


「……わかりました。一緒に参ります。後でその紙を見せていただけますか?」

「ええ、構いません。わかってくださってよかったわ」


 そしてフィリーネ様が歩き始めると、カイも続く。彼はこれまで一度も口を開いていないけれど、一体何がしたいのだろうか。それがすごく不気味に映る。


 二人の後を迷う足取りでついて行くわたくしに、店主は心配して大丈夫ですかと声をかけてくれる。店主から見ても、余程わたくしの表情は酷いのかもしれない。笑顔を作って大丈夫だと答え、店を後にした。


 そこで護衛と合流しようとすると、フィリーネ様が止める。用が終われば解放するから、こちらで待機させるようにと。


 そうなればわたくしは一人になる。心細いけれど、言う通りにしなければ家族に害が及ぶ。


 わたくしがフィリーネ様に目をつけられていなければ、カイと関係を持たなければ、こんなことにならなかっただろう。自分のせいで皆には迷惑をかけられない。


 言う通りにして、わたくしは彼女たちと宿へ向かった。


 ◇


「……それで、あなたは一体何がしたいのですか?」


 宿に着いて三人になったのを見計らって、わたくしは口火を切った。まどろっこしいやりとりはそれだけで神経が疲弊する。嫌なことはさっさと終わらせたかった。


 フィリーネ様は困ったように眉を下げる。


「いえ、以前はシュトラウスからグヴィナー家への援助があったでしょう? 離縁してカイと一緒になったのはいいのですが、生活が厳しくて。支援していただけないかと思いまして」

「……おかしいですわね。クラルヴァインとは事業提携もさせていただいているし、困ることはないはずですが」

「いえ、それが。カイは三男ということもあって、実家からの援助も期待できないのですわ。ですから彼に相応しい役職とか、資金を提供していただきたいの」


 要するにシュトラウスの商館でお飾りの役職について、それで楽に暮らしたいということか。厚かましさに呆れてものが言えない。


「……わたくしにそんな権限はございません。主人と息子が取り仕切っておりますので」

「またまた。あなたの一声があれば二人とも動いてくださるのではなくて? あなたがおっしゃったではないですか。ご家族が自分を心配してくれると」

「仕事に私情を持ち込むような二人ではございません。ですから諦めた方がよろしいですわ」

「……それはどうかしら。やってみないとわからないでしょう?」


 フィリーネ様はそう言って笑う。

 やってみるとはどういうことか。そんな疑問が浮かぶと同時にカイが動いた。


 カイはわたくしの腕を掴むとベッドに引き倒す。


「何を……」


 カイを見ると、荒んだ笑みを浮かべていた。しばらく会わなかった間に何かが彼をこんな風に変えてしまったのだろう。ようやくカイは口を開いた。


「以前のように仲良くしましょう。あなただってシュトラウス夫人として、これまで散々いい思いをしたんだ。私たちにも分けてくださってもいいでしょう?」

「……っ、あなたはフィリーネ様と再婚したんでしょう? どうしてわたくしを……」


 抵抗しようとしてもカイの力は強い。力で敵わないなら言葉で説得をと思ったけれど、カイはうっそりと嗤う。


「それが彼女の望みだからです。私は彼女をずっと愛してきた。彼女が贅沢を望むなら、あなたを抱けというなら、私は従うだけです。あなたにもわかるでしょう? 愛する人に喜んでもらいたいという気持ちは。家族のために自分を犠牲にしてきたあなたなら」

「……っ!」


 カイの言葉はわたくしの弱い部分を見事に突いた。


 そう。わたくしはマインラートやコンラートのためだと思って、いつも間違った答えを選んできた。だから彼の気持ちはわかる。だけど──。


「……わたくしは犠牲になったわけではないわ。ただ家族が大切だから守りたかっただけ」

「それなら余計に抗うことが間違っているとわかるでしょう? 私たちはシュトラウスの秘密を握っている。黙っていて欲しいなら共犯になるしかない。それで全て丸く収まるのだから」


 そうしてカイの顔がわたくしの首筋に埋められる。生温かい息遣いが気持ち悪くて鳥肌が立つ。


 わたくしの中には葛藤があった。二人の言う通りに二人に便宜を図れば家族は守れる。だけど、昔のようにわたくしは罪の意識に苛まれ、家族に顔向けできず、また心を閉ざして壊れるのか。


 ──嫌だ。


 気づいたら我慢できなくて必死で暴れた。ドレスの裾が捲れ上がろうがおかまいなしだ。カイを突き飛ばそうと腕を突っ張ったり、足でカイの胴を蹴ろうとしたけれど、効果はない。それでも今度は諦めたくなかった。


「……っ、あなたの言う通りにはならない! それは間違いだとわかるから……!」

「……大人しく」


 カイが苛々とし始めると、木造の廊下を激しく駆け抜ける音が響いて、部屋の扉が乱暴に開け放たれた。


 ベッドの上でカイに押し倒されたまま、そちらを見てわたくしは目を見開いた。


「……マインラート、どうして……」

「その話は後にしよう」


 マインラートは足早にこちらへ来ると、わたくしの上からカイを引きずり落とす。マインラートの後ろからは警備の者が二人ついて来て、カイとフィリーネ様を立たせて拘束した。


「ちょっとマインラート、酷いのではない? わたくしたちは伯爵家の者よ。子爵家如きがよくこんなことできるわね」


 後ろ手に縛られたフィリーネ様が悔しそうに言うと、マインラートはおかしそうに口角を上げた。


「その子爵家如きにたかっておいて、よくそんなことが言えますね。それに勘違いしないでいただきたい。あなた方はもう伯爵家の者ではないはずですが?」

「何を言っているの?」


 フィリーネ様は怪訝に問う。そこでマインラートは笑顔で告げる。


「先日商館を通じてクラルヴァイン家に抗議しました。お宅のご子息であるカイ殿とその妻君がシュトラウスに喧嘩を売ってきていると。取引停止も辞さないと申したところ、クラルヴァインの籍から二人を抜くのでお許しいただけないかとの回答をいただきました。もしかして、ご存知ではなかったのですか?」

「え、そんな……」


 フィリーネ様の顔色はみるみるうちに青くなる。そこにマインラートは追撃する。


「さて。貴族籍を抜けたお二人は、子爵夫人に危害を加えようとした罪でこれから裁かれることになりますが、どうなりますかね?」

「あ……あ、あ……」


 フィリーネ様はもう何も言えずに崩れ落ちる。だけど繋がれた綱のせいで苦しいはずだ。それすらも気にならないくらいの絶望感を味わっているのかもしれない。


 これが彼女に会える最後かもしれない。そう思ったわたくしは聞いてみることにした。


「……フィリーネ様、聞いてもいいですか?」

「……何よ。ざまあみろとでも言いたいの? さぞかしいい気分でしょうね」


 わたくしをギラギラと睨みつける目には憎しみがこもっている。それがずっと理解できなかったのだ。


「……わたくしはあなたにこんなことをされるような酷いことをしたのでしょうか?」

「は。何を言うかと思えば。あなたはいつもそう。自分には関係ありませんと澄ました顔をして。ただのお飾りの妻のくせに、後継を産んだというだけでそこにいられる。子どもを産めることがそんなに偉いの? わたくしは自分の体を使ってまでも家に貢献したというのに!」


 フィリーネ様は悔しそうに歯嚙みをする。


「……グヴィナー卿のことですか」

「……違うわ。わたくしはあの家に嫁ぐ前に結婚していたことがあるのよ。三年子どもができなかったからと勝手に離縁され、グヴィナーに嫁ぐしかなかった。だからやりたくもないことを我慢してやってきたというのに、また同じ目に遭わされる……どうしてよ! わたくしは悪くないわ!」

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