閑話.アイリーンの闇(マインラート視点)

 アイリーンはしばらく私に抱きついて泣いていた。やがて私の服を掴む力が弱まったかと思うと、そのまま私にもたれて眠ってしまった。


 無理もない。一年半も自力で動いていなかったのに、正気に戻って一ヶ月くらいしか経っていない。回復しきっていないのに無理ばかりするアイリーンに訝った。どうしてこんなに焦っているのかと。


 ここを出て修道院に入るつもりだったからだろう。そうして私と縁を切るつもりだったのだと気づき、私は焦った。


 二人で過ごす初めての穏やかな時間。時折見せるアイリーンの自然な笑顔にはっとさせられた。それなのにアイリーンは自分が笑っていることに気づくと、罪悪感を覚えるのか、密かに顔を曇らせる。まるで笑うことすら許されないとでも思っているようだった。


 それもこれも原因があったのだと、先程泣き疲れて眠ってしまった彼女のあどけない顔を見て溜息が出た。


 一人にするのは心配で、少し席を外すからアイリーンを見ていて欲しいとメイドに頼むと、再びコンラートたちの元へ急いだ。


 ◇


「たびたびすまない。実は話があるんだが……」

「どうしたのですか? それに母上は?」


 怪訝な顔をしながらもコンラートもユーリも話を聞いてくれるようだ。安心した私は話を続ける。


「アイリーンなら泣き疲れて眠ってしまったから、寝室に運んだよ。今はメイドが傍についている。それで、そのアイリーンのことなんだが」


 自分がアイリーンと話していて気づいた違和感を二人に話す。


「……アイリーンにクライスラー男爵夫人とのことを謝ったんだ。だが……」

「責められたのですか?」


 コンラートの問いに私は首を振る。


「その方がまだマシだった。アイリーンは私には何の責任もない、悪いのは自分だと言うんだ。自分が身を引けば私とクライスラー男爵夫人が再婚できて、シュトラウスは簡単に立て直せたはずだと。自分は二人の気持ちを知っていて見ない振りをしたから全て自分が悪い、その上、政略の道具にもなれなくて申し訳ないと反対に深く頭を下げられたよ」

「……それは違うのではないですか?」


 コンラートも気がついたようで、首を傾げる。


「僕は確かに感情的になって母上を責め立てましたが、後で考えて自分が間違っていると気づきました。母上は確かに見ない振りをしましたが、そもそも父上は既婚者だ。クライスラー男爵夫人も既婚者だとわかっていて父上と付き合ったのなら責任があるし、父上に至っては言わずもがなですよね」


 息子の言葉が耳に痛いが、その通りなので頷く。


「そうだ。だが、話していてアイリーンが言ったんだ。実家から私の機嫌を損ねるようなことをするなと言われていたから、私に何を聞かれても言えなかったと」

「父上は何が言いたいんですか?」

「……私はずっとアイリーンが私との結婚生活で我慢していたから一年半前に心を閉ざしたのだと思っていた。だが、きっとそうじゃない。この家に嫁いできた時にはもう彼女の心は限界だったんだと思う。生まれてからずっとお前は無価値だと言われ続けてきたんだ。それも当然だろう」

「……そうかもしれませんね」


 ユーリが相槌を打つ。ユーリはこの中で一番アイリーンと接していた。その中で何か気づいたことがあるのかもしれない。


「先程私が言っただろう? アイリーンがあなたは悪くないと言ったと。私はそうじゃないと説明したんだ。それでも彼女は全部自分が悪いと思い込んでいる。いや、正確には

「それは一体誰に?」


 コンラートは想像がつかないのだろう。険しい顔で私に問う。


「アイリーンの実家だよ。きっとお前には価値がない、価値がないお前が悪いと繰り返し言い続けたんだろう。アイリーンの中にはそういった考えが刷り込まれている。家庭を壊したのは自分、コンラートを歪めたのは自分、私とクライスラー男爵夫人が結ばれなかったのも価値がない自分が悪いと。だから他人を責められないんだ。さっきはようやく私を責めるようなことを言いかけたが、コンラートに言われてまた自分が悪いと自分を責めているようだ」


 コンラートは俯いてしばらく何かを考えていたが、気づいたようで弾かれたように顔を上げる。


「それじゃあ母上が心を閉ざしたのは……!」

「……きっと全て自分が悪い、こんな自分はいらないとでも思ったんじゃないか? 他人を責めることができないと、自分を責めることしかできないだろうから……」

「……僕は母上になんて酷いことを……自分が悪いと思い込んでいる人にあなたが悪いと責め立てたんだ。だから母上は自分を消そうと……」


 コンラートは悔やむように唇を噛み締める。確かにコンラートがアイリーンに言ったことは心に刺さったかもしれない。だが、嫁いできた時にはもうその状態だった。気づくべきだったのはコンラートではない。


「……私がもっと早くに気づくべきだった。アイリーンとちゃんと話していればこの違和感に気づいたかもしれないのに」


 私も悔しいし、アイリーンをそんな風に洗脳してきたアイリーンの実家の人々に怒りが込み上げて、思わずきつく拳を握りしめた。


 そこでユーリがおずおずと問う。


「それで、お義母様の実家は今、どうなっているのですか? あまりいい噂はお聞きしませんが」

「ああ。ブリーゲル家はアイリーンの弟に家督を譲ったものの、領地を守ることよりも自分たちの利益を優先させているようだな。重税に苦しんで領地を出て行く領民が後を絶たないと聞く」

「……なのに援助をしているのですか?」


 コンラートが憎々しげに問う。母親の実家とはいえ、母親をそこまで追い詰めて捻じ曲げたのだから、生半可な怒りではないのだろう。コンラートがアイリーンを思いやっていることにほっとする。


「アイリーンの実家だからだ。私はアイリーンが援助を断られたことを知っているとは思わなかったからな。政略が成り立っているとアイリーンに思わせたかった」

「それならもう打ち切りましょう。母上は政略が成り立ってないのを知っていますし、母上をこれだけ苦しめてきた上に領民のことを考えないような人たちに援助はしたくありません」

「だが……そう簡単な話でもないだろう」


 躊躇ちゅうちょする私に、コンラートは詰め寄る。


「父上は腹が立たないのですか?」

「腹が立つに決まっているだろう。こちらが大変な時は見限ったくせに、自分たちが没落しそうになれば手のひらを返して擦り寄ってくるような人たちだ。何度援助を打ち切ってやろうと思ったかわからない」

「それならどうして迷うのです!」

「……アイリーンがあの状態だからだ。自分の価値を見出せていないところに実家の援助を打ち切ったと知れば、アイリーンはまた自分は政略的な価値がないと思ってこの家を出て行きかねない。最悪、命を絶つのではと私はそれが心配なんだ……」


 心を閉ざしていた時、初めは食事もろくにとろうとしなかった。もしかしたら彼女は死にたかったのかもしれないと、今ならわかる。

 コンラートもわかったのか、沈鬱な表情で俯く。


「……父上の仰る通りです。僕はそこまでわかっていなかった。それなら僕らはどうすればいいでしょうか……?」

「……アイリーン自身が必要とされていることに気づくことが大切なんじゃないかと思う。そのために何をすればいいかは私にもわからない。これから皆で考えていかなければいけないと思って、それを相談したかったんだ。親のツケをお前にまで払わせるようで本当に申し訳ないと思う。だが、アイリーンのために協力してくれないか?」

「……もちろんです。僕はまだ母上のことをほとんど知らない。母上の苦しみも全て知りたいと思っています」

「私もです。嫁いできて色々あって悩んでいた私をお義母様は助けてくださいました。今こうしてコンラートと向き合えたのもお義母様のおかげだと思っていますから」


 二人はそう言って頷いてくれた。


 これはまだ初めの一歩に過ぎないだろう。アイリーンが長年受けてきた痛みはそう簡単に癒えるものではない。それは彼女の歪みからわかる。


 長い戦いになるかもしれないが、それでも傍にいると決めたのだ。これから彼女が本来の彼女を取り戻せるように皆で支えていきたい。


 そうして私はまだ眠っているだろうアイリーンの元へと急いだ。

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