贖罪
わたくしの言葉にマインラートは目を見開いた。そこまで驚くことではないだろうと、わたくしは小さく笑う。
「……どうしてだ? クライスラー男爵夫人のことが気になるのなら、それについては本当に申し訳ないと思っている……」
「……違います。わたくしはあなたとクライスラー男爵夫人、いえ、レーネ様とお呼びしますが、関係を持っていたことを当時から知っていました」
「……そうか。やっぱり許せないだろうな」
それは違う。マインラートはわたくしを裏切ったわけではない。わたくしがマインラートに自由にしていいと言っていたのだから、傷つくことがお門違いなのだ。
わたくしはゆるゆると首を振る。
「だから、違うのです。わたくしがあなたに自由にしていいと言ったのですから、あなたは間違っていません。間違ったのはわたくしの方です」
「どういうことだ?」
あの時、わたくしは自分の保身のために見て見ない振りをした。もし、マインラートがわたくしに離縁を突きつけたら、わたくしは否と言えなかった。そしてわたくしは強制的に実家に帰らされただろう。また虐げられる日々が始まるのかと思うと、耐えることが最良に思えた。
その結果、マインラートはレーネ様を選ぶことができなかった。わたくしが自分のことしか考えていなかったから。
愛していたなら身を引くべきだったのかもしれない。マインラートとレーネ様が思い合っていたのなら。
レーネ様はクライスラー男爵と結婚し、マインラートの子どもを産んだ。わたくしは彼女の人生をも歪めてしまったのだ。
間違えたのなら修正しなければならない。それがわたくしなりの贖罪の方法。
だけど、それを言ったらこの人は、自分のせいでわたくしが決断したと思って傷つくだろう。だからわたくしは嘘を吐くことにした。
「……わたくしが倒れてどのくらい経ったのですか?」
唐突に話題を変えたわたくしにマインラートは戸惑いながらも答える。
「あ、ああ。そうだな、一年半近くになるか」
「そう……そんなに経つのですね……」
心を閉ざしている間に、ユーリとコンラートの間に子どもが生まれるくらいだ。それくらいは経っていてもおかしくない。それならきっとこれから話すことにもマインラートは納得してくれるだろう。
「……それだけの間、わたくしは自分の中に籠っていたのです。あなたと一緒にシュトラウスを支えるという約束を果たさずに。離縁の理由としては相応しいと思いませんか?」
マインラートは眉を寄せて即答した。
「思わない」
この答えは想定外だった。マインラートは優しいけれど、彼にとっては家が絶対だと思っていた。
「何故?」
不思議に思って問い返すと、マインラートは顔を歪める。
「そんなことは当たり前だろう。私は確かに家を守るためにやりたくないこともやってきた。だからこそ今は思うんだ。家というのはいろいろなものを歪めてまでも守らなければいけないものなのかと。そのせいで君を苦しめて、コンラートも私たちを恨んで、私たちに思い知らせるためにクライスラー男爵家を守ろうと動いた。全ては私が不甲斐なかったせいだ」
「……それは違います。あなたは家のために頑張ってきたのに、わたくしが弱くて家族を壊した。あなたとの家を守るという約束は、家族の絆を守るという意味もあったのではないのですか? わたくしは結婚当初からそれすら守れなかった。コンラートがわたくしたちと敵対するような事態にまでなったのは、わたくしのせいです。こんな弱いわたくしはこの家には相応しくない。ですから離縁してください」
あくまでも離縁を望むわたくしに、マインラートは反対に問う。
「……離縁して君はどうするんだ? 君の実家は……」
言いづらそうに目を伏せるマインラートに、わたくしはマインラートも知っているのなら話が早いと頷いて答える。
「ええ。帰れません。ですから修道院に入れてもらおうと思います。幸い、子爵夫人として孤児院の慰問などを行なっていたので、そのあたりの繋がりがありますから」
何が功を奏するかはわからないものだ。まさか自分が当事者として入るとは想定もしていなかったけれど。
マインラートは難しい顔で言う。
「……離縁はしない。君が責任がどうこうと言うなら、私もそうだ。私はもう隠居するつもりでコンラートに仕事を任せている。だからもう、君も子爵夫人として頑張らなければと思わなくていいんだ」
それなら余計にわたくしはもうここにいなくてもいいではないか。マインラートがわたくしを引き止める理由がわからない。
だけど、もう決めたのだ。
「……もう、疲れたんです。ですから……」
わたくしや、子爵家当主という重責からあなたも自由になって──。
言葉にする代わりにマインラートにぎこちなく笑いかけると、マインラートの驚く顔が目に映る。
そういえばわたくしはマインラートに笑いかけることもなくなっていた。彼を不快にさせないようにとなるべく顔を合わせないようにしていたこともある。
だけど、今は嫌われることを恐れない。彼を失う勇気を手に入れたのだから。
「……申し訳ありません。少し疲れてしまって、休んでもいいでしょうか……?」
しばらく話していなかったからか、話すのが辛くなってきた。次第に眠くなってきて、マインラートの声がはっきり聞こえなくなり、わたくしはいつのまにか眠りに落ちていた。
◇
目が覚めるとまだ室内は暗かった。朝になっていないのかと、身じろぎして体を起こそうとしても、思うように体が動かない。
しばらく自分の意思で動かしていなかったせいだろう。頑張って這ってベッドから降りようとして、支えていた手が滑り、ベッドから落ちた。その拍子に大きな音がしたけれど、この部屋にはわたくししかいないはずだ。誰にも気づかれないだろう。
「つっ……う……」
「……アイリーン?」
痛みを堪えて小さく呻くと、寝ぼけた声が聞こえてきて驚いた。暗くてよく見えなかったけれど、誰かがいる。
「……誰?」
恐る恐る問いかけると、返事があった。
「私だよ。それよりどうしたんだ。まだ早いだろう……?」
声の主がマインラートだとわかってホッとした。だけど、どうしてここにいるのかがわからない。黙っていると、マインラートはベッドの傍にある明かりをつけた。
「アイリーン! どうした?!」
ぼんやりとした明かりに照らされて、ようやくベッドから落ちたわたくしに気づいたマインラートは、慌ててこちらへ来た。
屈んでわたくしを横抱きにすると、立ち上がる。わたくしはマインラートがそうすると思わなくて、マインラートが立ち上がった拍子に落ちるのではないかと不安になった。力を振り絞ってマインラートの首に腕を回すと弱々しい力でしがみつく。
マインラートはわたくしを横抱きにしたまま、ベッドに入り、足を投げ出してベッドヘッドにもたれかかる。
それでも相変わらずわたくしを離さない。
「あの、マインラート……もう離していただけないかしら……」
「いや、このままで。また何かあったらいけないだろう?」
「……大丈夫です。うっかり落ちただけなので」
ふうと、マインラートの溜息がわたくしにかかる。そのくすぐったさに体が震えた。
わたくしの体に回されたマインラートの腕に力が籠る。
「……君が倒れて、起きてから反応がないとコンラートから連絡をもらって本当に驚いた。もうあんな思いはしたくないんだ」
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