失う勇気

 子どもを産んだユーリには、わたくしの気持ちがわかるのかもしれない。ユーリは続ける。


「お義母様は、すごく嬉しそうにあなたを呼んだのよ。幸せな夢だったからでしょう? お義母様、そうではありませんか?」

「……ええ、そうよ。わたくしはずっと後悔していた。どこで間違えたのかわからなくて、やり直したくてもどう修正すればいいのかもわからない。だから、一番幸せだった時に戻りたかった」


 わたくしの一番幸せな時、それはコンラートが生まれた時。マインラートと気持ちが通い合っていなくても、愛する人と結ばれて子どもが生まれたのだ。その子が愛しくないはずがない。


 当時を思い出して、胸が苦しい。拳を握りしめて苦しみに耐えようとしても涙がこみ上げてきて、ポツリポツリとシーツが濡らされる。


 わたくしの言葉にコンラートは驚く。それだけわたくしがコンラートの気持ちを踏み躙ってきたということだ。


「……僕が生まれた時が一番幸せだったんですか……?」

「ええ……実家にいても誰にも顧みられることもなくて、ようやく家族ができたと初めは嬉しかった……」


 かけがえのない宝物。そのはずだった。

 わたくしを見るマインラートの視線に気づいて、顔を背ける。


「……だけど、ほとんど顔も合わせない夫にあなたが段々似てくるのが辛くなってきた……。

 夫の愛人から嫌味を言われ続けて耐えること、欲しくもないのに子爵夫人としての体裁を整えるためだけに形だけの夫に金銭や物を強請らなければいけないこと、何より夫に顧みられないこと……。

 わたくしは自分が酷く劣った人間に思えて、自分が嫌いだった。そして、わたくしを惨めな気持ちにさせるあの人も嫌いになった」


 違う。コンラートがマインラートに似ることは嬉しかった。だけど、そんなコンラートがマインラートと同じようにわたくしを選んでくれないことが辛かった。自分の醜さを隠そうとする、被害者意識の高い自分に吐き気がする。


 確かにグヴィナー伯爵夫人から受けていた嫌がらせや策略はわたくしを酷く傷つけた。だけど、付け込まれる隙を作ったわたくしに非がある。


 マインラートに金銭や物を強請らなければならなかったのは、わたくし自身に価値がなく、実家から援助を引き出せなかったから。


 マインラートが振り向いてくれないのは、わたくしがマインラートに手を伸ばそうとしなかったから。


 全てはわたくしが招いたこと。


 それに、マインラートを嫌いになったなんて嘘だ。嫌いになれたら楽になれるのにと思っても、結局わたくしはずっとマインラートを愛しながらも愛し方がわからないから自分の気持ちにも目を背けてきた。


「……あなたに八つ当たりをしそうで怖かった。自分が受けた仕打ちを人にはしたくなかった……なんていうのは言い訳に過ぎないわね。結局わたくしは逃げたのだから。あなたがわたくしを憎むのは当然よ」


 本当にわたくしは愚かで醜い。泣きながらも自分を嘲って笑うことしかできなかった。


 コンラートは眉を寄せて口を開いた。


「……僕は正直、あなたを憎んでいるかはわかりません。そこまでの関わりがありませんでしたから。ですが、こうして心配するくらいにはあなたのことを思っています……僕はずっと、あなたに振り向いて欲しかっただけなのかもしれません。あなたの先程の言葉を聞いて動揺しましたから。本当の気持ちを教えてくれませんか?」

「あ……ああ……」


 コンラートがどうしてこんなわたくしを心配するのかわからない。まだわたくしを母と思ってくれるのかと、期待と不安がないまぜになる。


 本当の気持ち? そんなことは決まっている。

 わたくしは滂沱の涙を流しながら口にする。


「……愛しているに決まっているでしょう……」

「……先程は聞き間違いか、嘘なのかと思いました。だけど、混乱していたあなたが嘘を吐く必要はないでしょう。僕はその言葉を信じます。

 それじゃあ、今度こそ父上とも向き合ってください。母上の悪いようにはならないはずですから……」


 わたくしの悪いようにはならないというコンラートの意味深な言葉に、わたくしの中に疑問符が浮かぶ。


 コンラートがマインラートに目配せすると、マインラートが前に出てわたくしに頭を下げる。


「すまなかった、アイリーン……」

「ユーリ、僕たちは行こう」


 マインラートに頭を下げられる意味もわからず困惑しているのに、コンラートは赤子を抱いたユーリと部屋を出て行ってしまった。


 バタンと扉の閉まる音がしても、マインラートは頭を下げたまま微動だにしない。困惑のあまり、涙も止まってしまった。


 わたくしは静かに問いかける。


「……何故あなたが謝るのですか?」

「……私が君をここまで追い詰めたからだ。本当にすまなかった」


 マインラートは頭を下げたまま更に謝る。違うのにと思って、先程マインラートを責めるようなことを言ってしまったからだと気づいた。


「……頭を上げてください。あなたは何も悪くないのだから。先程、コンラートにはああ言いましたが、全てはわたくしの弱さが招いたこと。わたくしこそ、迷惑をかけて申し訳ありませんでした」

「いや、それは……」


 マインラートは首を振って否定してくれる。やはり優しい人なのだ。わたくしは小さく笑う。


 閉じた世界に籠る前は心が限界だと思っていたけれど、今のわたくしの心は凪いでいる。


 きっと閉じた世界で心を休息させたことや、コンラートに本心を伝えられたこと、コンラートが許してくれたおかげだろう。


 今なら失う勇気を持つことができる、そう思ったわたくしはマインラートに告げた。


「離縁してください」

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