愛人の訪い
それから数日は仕事に出かけるマインラートを送り出し、コンラートと過ごすという日々が続いた。マインラートは帰りが遅くなったり、帰ってこないこともあったけれど、そういうものだと諦めていた。
だけど、今日は違った。いつものようにマインラートをコンラートと一緒に送り出してしばらく経った後、執事が慌ててわたくしのところに来た。
「奥様、申し訳ございません。奥様にお客様なのですが……」
「来客なんて珍しいわね。どなたなの?」
シュトラウスが落ち目になってから、わたくしからは人が離れていった。利用価値がないと見限ったからだろう。それならそれで煩わしい人間関係に振り回されなくて済むと、気にはしていなかった。それに元々実家とは疎遠だ。だから、来客が誰なのか、全く想像がつかなかった。
執事は言いにくそうに遠回しに告げる。
「……旦那様のお仕事関係の方です」
執事の様子と仕事関係。その言葉からひょっとしたらと嫌な想像が浮かぶ。
「……女性かしら?」
「……ええ、そうです」
きっと事業提携の件でマインラートと関係を持っている女性なのだとピンときた。だけど一体何をしにきたのだろうか。
正直に言うと会いたくない。これまではマインラートがどんな女性と関係を持っているのか知らなかったから耐えられた。それはマインラートから聞いてはいても、信じていなかったところがあるからだ。
そんな女性はいない、幻だと思いたかったけれど、現実を直視する時が来てしまったということ。諦観を滲ませて、わたくしは執事に応接室へ案内するように告げた。
◇
「はじめまして。フィリーネ・グヴィナーと申します。ご主人にはいつもお世話になっております」
「……マインラートの妻のアイリーンと申します。いつも主人がお世話になっております」
にこやかに笑う女性は、地味な印象を与える茶髪に茶色の瞳のわたくしとは正反対の、金髪碧眼の華やかな美貌だった。ドレス越しでも豊かな胸を隠せない。だからなのか、自信たっぷりにわたくしを
物珍しいものでも見るような視線は気持ちのいいものではない。用件を聞くだけ聞いて帰ってもらおうと早速本題を切り出した。
「それで、本日はどのようなご用件でしょうか?」
「いえ、マインラートから奥様がこちらにいらしていると聞きましたので、ご挨拶だけでもと思いまして」
呼び捨てにするのは、自分がそれだけ彼にとって特別な存在だとわたくしに思い知らせたいからだろうか。彼女と対峙していると、違いを見せつけられて卑屈な気持ちになる。
「そうですか……シュトラウス家へのお力添え、心より感謝いたします」
わたくしにはできないことを彼女がやっているのだ。嫉妬で気が狂いそうなのに、わたくしには彼女に頭を下げることしかできなかった。惨めで、自分が場違いな気がして消えたくなる。
「いえ、滅相もないことですわ。わたくしはただ、主人にマインラートは優秀だから、共に事業を展開することで得られるものが大きいと意見しただけですの。女の身で偉そうだと思われるかもしれませんが」
彼女の言葉に思わず息を呑んだ。
わたくしはてっきり、ご主人の特殊な性癖に嫌々付き合わされていてマインラートと関係を持ったのだと思っていた。
だけど彼女を見る限り、そんな風には見えない。そういえば昔アードラー夫人から聞いた噂では、夫婦揃って同じ性癖だと言っていた。だから対等でいられるのだろうか。
表情一つ変えることなく、わたくしは更にお礼を言う。そうすると、何故か彼女の顔が輝いた。
「奥様って、面白いですわね。てっきりわたくしは悔しそうな顔をされるかと思っていたのですが。マインラートから聞いているのでしょう? わたくしたちがどんな関係なのか」
「ええ、存じております」
あからさまな言葉は控えて、それだけを言う。はっきり口にしてしまうと、もし違っていた場合に部外者に醜聞を漏らすことになる。マインラートが毎日頑張っている中、わたくしが足を引っ張るようなことはできない。そのくらいの分別は持っているつもりだ。
「わかっていて素知らぬ顔でいられるのね。マインラートから聞いていた通りだわ」
マインラートの名前が出て、わたくしはつい相手の
「主人が何を……?」
その言葉を待っていたかのように、彼女はすうっと目を細め、口角を上げた。
「妻は何を考えているのかわからない、つまらない女だと。だからわたくしのようにぽんぽんと話が弾む女がいいと言ってましたわ」
──つまらない女。
それは女としての価値がないということか。わたくしはブリーゲルの娘としての価値もなく、女としての価値もない。
ひょっとしたら彼女の
「そうですか……主人がそんなことを……」
自尊心はズタズタに切り裂かれ、俯き加減になる。そんなわたくしに満足気に彼女は更に言う。
「ですから、安心してわたくしにお任せくださいませ。悪いようにはいたしませんから」
つまり、これからも関係を続けて便宜を図ってやると言いたいのだろう。
彼女はわたくしが実家から援助を引き出せないことも知っているのかもしれない。
──悔しい。
わたくしに力があれば、彼女に言いたい放題になんてさせないのに。マインラートとの関係もまた違ったものになっていたのかもしれない。
こんな人とマインラートが関係していると思うだけで嫉妬で気が変になりそうだ。
だけど今は、屈辱で血が滲むほどに拳を握りしめて、彼女に再び頭を下げるしかできなかった。
「……よろしく……お願い、いたし、ます」
そうして彼女は帰って行った。
◇
辛くて仕方なくて、彼女が帰るとすぐにコンラートの元へ急いだ。どんなに辛くても苦しくても、コンラートの顔を見ればきっと──。
昼寝をしていたベッドの上のコンラートに近づいて手を握ると、子ども特有の温もりが心に沁みる。そしてコンラートは身じろぎして目を覚ました。
「……は、はう、え?」
「……ええ。いい子で眠っていたのね。偉いわ」
ぱちぱちと目を瞬かせるとコンラートはキョトンとした顔をする。
「ははうえ、ないてる?」
「え……?」
泣かないと決めていたのに、コンラートの顔を見て涙腺が緩んだようだ。ぽつぽつとコンラートの顔に水滴が落ちて、コンラートが小さな手をわたくしの顔に伸ばす。
「ははうえ、いたい?」
「……ごめんなさいね、ダメなお母様で。本当にわたくしは……」
娘としても女としても価値がないとすれば、どうすればいいのかわからない。わたくしの生きる意味は
今にも壊れそうな心は、唯一の味方であるコンラートへ向いていく。そうやってバランスを取るしかなかった。
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