家族とは?
翌日。昨夜のことを覚えていないのか、わたくしの部屋に来たマインラートの態度は至って普通だった。
「昨夜はすまない。だが、来てくれてありがとう。コンラートも大きくなったな」
目尻を下げてわたくしが抱き上げているコンラートに話しかけるけれど、コンラートは覚えていないようで、首を傾げて「だれ?」と言った。
「お父様よ」
「おとうさま?」
「……これはわかってないな」
苦笑しながらも肩を落とすマインラートが可哀想になる。
「まだ小さいので仕方ありません。きっとそのうちにわかるようになります」
「そうだな。だが、血の繋がった我が子にわかってもらえないのは結構辛いな。仕方がないとはいえ」
マインラートはコンラートの頭を撫でながら寂しそうに呟く。それならこれからは一緒にいた方がいいのだろうか。そう言おうとしたけれど、口には出さなかった。
女の分際で余計な口出しをしたら、また怒らせてしまう。一度ぶつけられた怒りが怖かった。
マインラートは暴力を振るうような人ではないと思う。だけど、わたくしは結婚して数年経つというのに、彼のことを知らない。恋心に目が眩んで、彼のいいところしか見ていなかったとしたら?
人の中身なんて目に見えるものではない。だから勝手に想像して、理想の相手を作り上げるのだ。きっとあの人はこうだ、こうに違いないと。そして、自分の思い描いた相手と見えた姿の落差に勝手に落胆する。
わたくしも、両親もそうだった。
わたくしは彼らに頑張れば認めてもらえるし愛してもらえると勝手に期待を押し付けて、彼らはわたくしに高い能力を期待した。
結果、お互いにお互いの期待を裏切った形になった。能力のないわたくしが頑張ったところで、両親の望む水準まで行くことはできなくて、余計に自分に価値がないと思い知らされただけだった。
この世に必要のない人なんていないというけれど、それは建前に過ぎないのではないか。
そんな風に自分の存在価値に揺れ動く心を繋ぎ止めてくれるのはコンラートの存在と、子爵夫人という肩書きだけだ。目の前にいるマインラートに必要とされているとは欠片も思えない。
そのままぼんやりと自分の思考に入り込んでしまっていたようだ。怪訝な表情のマインラートに顔を覗き込まれて、はっと気づいた。
「……アイリーン、大丈夫か?」
「え? ええ」
「顔色が悪いぞ。疲れているんじゃないのか?」
眉を寄せて心配そうにマインラートはわたくしを見ていた。昨日の
「それはあなたの方ではありませんか? 今日もこれから出かけるのでしょう?」
マインラートはまだ朝も早いというのに既に
「ああ。今日も商売について教えてもらうことになっているんだ。せっかく来てくれたのに悪いとは思うが……」
「それはお気になさらず。わたくしはコンラートの面倒をみていますから」
「そうか……何だか私は家族じゃないみたいだな」
マインラートはマインラートで疎外感を感じているようだ。先程からコンラートはマインラートから顔を逸らして、べったりとわたくしにくっついている。
父親がどういう存在なのかわかっていないのと、コンラートの中では知らない人という認識なのだろう。
わたくしには何も言えなかった。言う権利もない。ただ黙って従うことが美徳なのだから。
表情を変えずにただ黙って見返すわたくしに、マインラートは寂しそうに笑う。
「……子どもができれば家族になれると勘違いしていたのかもしれないな。つまらないことを言ってすまない。それじゃあ、行ってくるよ」
どうして。機嫌を損ねないように黙っていても、マインラートはそれを嫌がっているように見える。わたくしには正解がわからない。
「……行ってらっしゃいませ」
静かに頭を下げて見送ると、コンラートがわたくしの頭を撫でる。
「ははうえ、いたい?」
「……あなたがいるから痛くないわ。大好きよ、コンラート」
「ぼくも」
そうしてコンラートは綻ぶように笑う。
子どもは聡い。わたくしが傷ついていることを敏感に察したのだろう。優しい子に育ってくれて嬉しい。
結局、その日マインラートは帰ってこなかった。それだけ忙しいということなのか、それとも女性と一夜を過ごしているのか──。
彼から香った女性物の香水の匂いを思い出して気分が悪くなった。直接その現場を見たわけでもないのに、彼が別の女性と過ごしているということを感じるのが初めてだったからだ。
だけど、それは浮気ではなく、仕事の一環としてのもの。だから彼はわたくしの元に帰ってくるはずだ。そう考えて自嘲の笑みが浮かんでくる。
わたくしと彼との間に愛なんて存在しないのに。ただ、妻だからというだけでここにいるわたくしは、そんなことを思うだけでおこがましい。
彼にとって大切なのは、シュトラウスという家と、コンラートという我が子。わたくしはつい、勘違いしてしまう。自分が彼にとって特別な存在であるかのように。
──あなたは誰にも愛されない。
そんなことはわかっている。だけど、優しい夢を見てもいいではないか。夢を見るのは自由だ。幼い頃から愛されないのが当たり前だったわたくしに許される、唯一の逃避手段なのだ。
昔は、辛い思いをしている主人公の女の子が素敵な男性に救い出される、そんな物語に憧れた。だけど、それは物語だから成立すること。それに、わたくしはどう足掻いても主人公にはなれない。主人公のように魅力的な女性ではないから。
自分の身の程をわきまえることで、そんな錯覚は消えた。卑屈なのか謙虚なのかわからないけれど、その境目なんて元々曖昧なものなのかもしれない。
ゆらゆらと揺れる心に翻弄されていると、いっそ心なんてなければいいと思う。そうすれば風のない凪いだ海のように穏やかに過ごせるのに。
自分の心なのにままならない。そして一人でまた悩むのだった。
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