花の痛み、私の痛み
たった一日でマインラートは慌ただしく領地を後にした。
残されたわたくしとコンラートは、また同じような日々の繰り返し。だけど、コンラートは少しずつ大きくなり、やがて立って歩き始め、言葉まで話せるようになった。人というのはすごいと改めて思う。
「ははうえ、これ、なに?」
一歳を過ぎて数ヶ月、まだ舌ったらずで懸命に言葉を紡ぐコンラートは可愛らしい。指を指すのは庭の隅にひっそりと咲いた花だった。
「それはお花。名前まではわたくしにもわからないわ」
きっと庭師が植えたわけでもないのだろう。種が飛んできて、たまたまここで芽吹いただけ。誰の目につくこともなく、主張もしない花は、まるで自分のようだと切なくなった。
コンラートは首を傾げていたけれど、何を思ったか急に花を掴んだ。慌ててわたくしはそれを止める。
「コンラート、ダメよ。お花も生きているの。痛いからやめてあげて」
「どうして? おはな、はなさないのに。わかるの?」
「……お母様と一緒だからよ」
この子にはわかるはずがない。そう思っていてもつい言葉が
生きているのに心があると思われず、ただ虐げられる辛さ。口が利けても利けなくても、痛いものは痛いのだ。
コンラートには人の痛みがわかる優しい子になって欲しい。わたくしの両親のようにはなって欲しくない。その気持ちが通じたのか、コンラートは花から手を離した。
「ごめんなさい」
花に向かって頭を下げる様子は微笑ましくて、思わず笑みがこぼれた。コンラートも嬉しそうに笑う。
「ははうえといっしょ。だいすき」
コンラートの言葉に、熱いものがこみ上げてきた。しゃがんで力一杯コンラートを抱きしめると、コンラートは苦しそうに身じろぎする。
「くるしいよ」
「……ごめんなさいね。わたくしも大好きよ。あなたが生まれてきてくれてよかった。ありがとう」
マインラートとは事務的なやりとりが続いていて、寂しかった。それでも寂しいなんて口にはできない。自分が選んだことだと割り切ったのだから。
時には、マインラートに似てくるコンラートを見て、何とも言えない気持ちになる。あの人と同じ顔で母上と慕ってくれるのは嬉しいのだけど。
コンラートから体を離すと視線を合わせて話しかけた。
「……そろそろ中に戻りましょうか。お昼寝の時間よ」
「うん」
コンラートは素直に頷くと、抱っこをせがむように手を伸ばす。求められている喜びに、わたくしもコンラートの手を取って抱き上げる。抱き上げると甘い匂いと柔らかさに癒された。
もう一歳も過ぎて重くなったこの子を、いつまで抱き上げることができるだろうか。重さを実感するように力を込める。
──何があってもこの子は絶対に守る。
後継だからではなく、大切な我が子だから。マインラートに注げない愛情を、その分コンラートに注ごうと思った。
◇
そしてまた社交シーズンがやってきた。今回は、『コンラートも大きくなったから一緒に王都に来ないか』と、マインラートから手紙が届いた。
マインラートと、大きくなって話せるようになったコンラートを会わせたかったから、わたくしはコンラートを連れて王都へ行くことにした。
だけど、まだよくわかっていないコンラートを連れて行くのは大変だった。長時間馬車に乗りっぱなしで飽きたと暴れたり、興奮してあれ何、これ何と質問責め。もう少し待った方が良かったかと後悔しそうになった。
へとへとになりながらも馬車が王都に着いたのは翌日の夜半過ぎだった。前日は早朝に出発したにもかかわらず、所々で休憩を挟んでしまったからだろう。
だけど、王都のシュトラウス邸に着いてもまだマインラートは帰ってきていないようだった。先に軽く夕食と入浴を済ませ、コンラートを寝かせると、マインラートの帰りを待った。
執事は心配して早く休むようにと言ってくれるけれど、久しぶりに会うから早く会って挨拶をしたかった。それに体調が大丈夫か心配だったし、なんて言い訳を連ねたところで、本心はやっぱりただ会いたいに尽きる。
メイドたちが慌ただしく動き始めて、ようやくマインラートが帰ってきたのだと、わたくしも一緒に玄関ホールに向かって出迎えた。
だけど、マインラートの様子がおかしい。ふらつきながら、赤ら顔で間延びした声でただいま、とマインラートは告げる。
今にも倒れるのではないかと心配して駆け寄ると、酒と、女性物のような香水の匂いが鼻につく。かあっとわたくしの頭に血が上った。
「……こんな時間まで遊んでいらしたの?」
マインラートは酒が回っていて何を言われたのかわかっていないのかもしれない。諌められないのをいいことに、わたくしは思わずマインラートを詰ってしまった。
「今日わたくしたちが着くと手紙を送っていたでしょう? コンラートに会わせたいとこちらに来たのに、我が子よりも遊びの方が大切なのですか?」
「……仕事だよ」
マインラートは苛々したように吐き捨てる。その開き直ったような態度に、またわたくしは食ってかかってしまった。
「どこが仕事なのですか? 酒と女性物の香水を匂わせて、随分と楽しそうなお仕事ですこと」
「……君に何がわかる」
唸るようにマインラートは言うと、わたくしを睨みつける。その眼光の鋭さに思わず身が竦んだ。
──わたくしは何ということを……。
意見してはいけなかったのに、口出しをしてしまった。さあっと顔から血の気が引いていく。
きっと殴られる。思わず自分の頭を庇うように頭上で腕を交差して目を瞑る。
だけど、思ったような反応はなく、恐る恐る目を開けると、困惑したようなマインラートの顔が目に入る。
「何をしているんだ?」
「え……殴らないのですか……?」
「何故そんなことをするんだ?」
「……わたくしが、口答えをしたから……」
「いちいちそんなことで手をあげたりはしない。疲れているんだ。話は明日にしてくれないか」
話を打ち切ると、マインラートは執事に支えられながら自室へ向かう。
その後ろ姿を複雑な気持ちで見送った。
殴られなかったのはいいけれど、わたくしはいちいち気にかけるほどの存在でもないということだろうか。我が子もそれくらいどうでもいいということなのだろうか。
ささくれ立った気持ちはやがて被害妄想になる。悪い方へ考えることを止められずに、一人で苦悩するのだった。
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