彼の決断と恋心との決別
「奥様、旦那様から手紙が届いております」
「そう。きっとわたくしの手紙が届いたのね。わかったわ。この子が眠ったら読むから、机に置いておいて」
椅子に座ったまま赤ん坊に乳を含ませながら、執事にそう告げる。小さな口で一所懸命に吸い付く様子が愛らしい。
マインラートには、子どもが生まれたこと、子どもの名前を考えて欲しいことを手紙で知らせていた。きっとその返事なのだろうけれど、不安がまた頭を過ぎる。
お前の実家に援助を求めたが一蹴された、どういうことだ、と恨みつらみや、お前はもういらないと書かれていたらどうすればいいのだろうか。
鬱々と考えていると、不意に乳を吸う力が弱まったので、どうしたのかと視線を落とした。赤ん坊はそのままうとうとと眠りかけている。トントンと背中を軽く叩くとけぷっと音がした。ゆっくりと起こさないようにベッドに寝かせて、手紙に手を伸ばす。
読むのが怖い、だけど知りたいという相反する気持ちがせめぎ合う。しばらく封を開けずに手紙をじっと見つめていた。
だけど逃げていても仕方がない。覚悟を決めて封を開けて手紙に目を通す。
──アイリーン。体調はどうだろうか? 後継を産んでくれてありがとう。大変な時に傍にいられなくてすまない。それで、名前を考えて欲しいということで考えたんだが、コンラートはどうだろうか?
読んでいて顔が綻ぶ。眠っている我が子に思わず話しかける。
「お父様が、あなたの名前はコンラートはどうか、ですって。いい名前だと思わない?」
眠っていて返事はないけれど、きっとこの子も気に入ってくれるはずだ。満足し、また手紙に視線を戻して目を疑った。
──実は、また条件付きの事業提携の話がきている。以前は断ったが、後継も生まれたからには家を守らなければいけない。私が泥を被れば済むのなら、そうしようと思う。君はこうなることを見越して、結婚する時に愛人を作ってもいいと言っていたのだろうか。私に気を遣わせないために。ありがとうと言っていいのか、申し訳ないと言っていいのか。君はこれまで通り、家と息子を頼む。
恨みつらみどころか、気遣う言葉に胸が痛む。そして彼は選んだのだ。家を守ることと引き換えに身売りをすることを。
ポツポツと手紙に水滴が落ちて、文字が滲んでいく。
わたくしが役立たずでなければ、あなたにそんなことをさせないのに。それに彼がわたくしを抱いた手で誰かを抱くなんて考えたくない。
だけど、どんなに思っていても何もできないわたくしに、それを止める権利なんてない。これで本当にわたくしはマインラートに気持ちを告げることができなくなった。
どうして。幸せを手に入れたと思った瞬間に、幸せはわたくしの手からこぼれ落ちてしまう。
「……ごめんなさい」
あなたを支えることができなくて。あなた一人に重荷を背負わせてしまって。役立たずで──。
立っていられず、その場に崩れ落ちて顔を覆う。引き絞られる胸の痛みに後押しされるように、次から次へと涙が溢れる。
今だけは存分に泣かせて欲しい。そうでないと割り切れなかった。
泣くだけ泣いたらマインラートとの約束通り、家とコンラートを守ることに専念する。そう心に誓った。
◇
それからはマインラートと手紙でやり取りをしていた。
マインラートからくる手紙は、王都で仕事をしながら、以前話していた元商人の準男爵に商売についてのあれこれを学び始めた報告や領地に変わりがないか、コンラートが元気でやっているかという内容が多い。
それに対してわたくしは領地で気になること、コンラートのことを報告している。
文字通り報告だ。手紙には一切感情を込めないようにした。淡々と事務的にしていないと、余計な言葉が出てきそうだったからだ。
わたくしにマインラートを好きでいる資格なんてない。だから諦めないといけないとわかっていても、人の気持ちなんてそんなに簡単なものではない。
あなたに会いたい、あなたが恋しいと、わたくしの恋心がまだ悲鳴を上げている。
「だけど、あなたがいてくれる……」
腕の中でもぞもぞと動くコンラートの温もりと重さだけが今のわたくしの生きるよすが。マインラートと体だけでも繋がることができた、そのことに感謝してこの子を精一杯愛そう。
そしてマインラートの面影を残す我が子を抱きしめた。
◇
そんな日々が続き、社交シーズンが終わったにもかかわらず、マインラートは帰って来なかった。帰ってくる様子を見せないマインラートに苛立ち、日々成長する我が子が可愛くないのかなんて可愛くないことも考えた。
だけど、彼は彼でしなければならないことがある。わたくしはそう信じて待つしかないのだ。定期的に手紙が来るからか、現実を直視していないからか、あれからは泣いていない。
というより、泣く暇がないの間違いかもしれない。
コンラートは元気いっぱいで、よくお腹を空かし、よく泣き、よく眠る。今は厳しい状況だからと乳母を雇わずに、元々いた出産経験のある使用人たちに助けられながら何とか子育てをしている。
貴族らしくないことは重々承知の上だ。だけど、この子と離れることなんて考えたくなかった。その一方で屋敷の切り盛りをし、領地の様子に気を配り、本当に忙しい日が続いていた。
そんなある日、仕事の合間を縫って、マインラートが帰ってきた。
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