彼のためにできること

 そうして始まった結婚生活だったけれど、やっぱり順調にはいかなかった。閨事ねやごとはしているのに、わたくしとマインラートの間にはよそよそしさが残る。わたくしが自分で勝手に作り出した壁は思ったよりも高く、分厚いのかもしれない。


 その上、今現在わたくしたちはまだ王都にいるけれど、シュトラウス領から領地の状態に関する報告がくるたびにマインラートの眉間の皺は増えるばかり。


 子爵夫人としてマインラートにどんな報告があったのかと聞いても、マインラートは約束を持ち出して、やんわりとわたくしの介入を拒む。


 本当にこのまま言われたことだけを果たしていればいいのだろうかという悩みまで増えてしまった。


 ◇


「……今日は遅くなるから」


 結婚して約一月。心労のせいか、あまり眠れていないようなマインラートは、朝食を食べる手を止めて切り出した。


「それはいいのですが、顔色が優れないようですわ。休んだ方がいいのではなくて?」


 領地の視察で日に焼けたマインラートの肌に、くっきりと黒ずんだ隈が目立つ。明らかに憔悴しているのが、わたくしにもわかる。


 だけど、マインラートは緩慢に首を振る。


「いや、そういうわけにはいかない。今日は人と会う約束があるんだ」

「そうですの……それなら出かけるまで少しお休みになられたらいかが?」

「いや、それは……大丈夫だから。もうそろそろ行くよ」


 わたくしの提案に渋ったマインラートはそのまま席を立とうとした、その時──。


 ぐらりと彼の体がかしいで、わたくしは反射的に立ち上がると彼に駆け寄り、正面から抱き止めて支える。だけど、彼とわたくしでは体格が違う。


 はしたないという思いをかなぐり捨てて叫んだ。


「お願い、誰か、来て!」

「旦那様!」


 わたくしの声に反応してくれたのは執事だった。慌てて駆け寄ってくると、マインラートを一緒に支えてくれる。


「このまま一緒に寝室まで運んでくれるかしら?」

「かしこまりました」


 二人で肩を支えて寝室へと向かうが、マインラートの意識ははっきりしていないようだ。何度か名前を呼んではみたが、判然としない返事をしていた。


 そのまま執事はマインラートを寝室のベッドに寝かせると、医者を呼ぶために部屋から出て行った。


 わたくしに何ができるだろう。意識のないマインラートの頭を撫でながら考える。


 そのためにはシュトラウス家の実情を知ることが必要だ。マインラートはわたくしに、この屋敷の中のことと後継のことだけしてくれればいいと、詳しいことは教えてくれないだろう。それならば、事情を知る別の人に聞けばいい。


「……あなたはしばらく休んでいて。わたくしはわたくしにできることを考えるから」


 恐らく聞こえていないだろう。それでいい。わたくしは彼のひたいに口付けをすると医者を呼びに行った執事の後を追った。


 ◇


「今、シュトラウス領はどうなっているの?」


 医者がマインラートを診ている間に話を済ませようと、わたくしは執事を呼び止めて単刀直入にそう切り出した。


 いきなりで面食らう執事が怯むのも気にせず、わたくしは更に詰め寄る。


「きっと口止めされているのでしょうが、わたくしにだって知る権利はあると思わない?」

「それは……」


 執事は黙り込む。こうしている間にもマインラートの気がつけば、またわたくしは話を聞けなくなる。もどかしい気持ちで執事の返事を待った。


 やがて執事は意を決したように口を開いた。


「……旦那様から口止めをされておりましたが、旦那様を支えられるのは奥様しかおられません。どうか、お力をお貸しください」

「もちろんよ。それで?」

「実は……」


 そうして執事が話し始めた事実は、思っていたよりもシュトラウス家が傾いているということを知らしめていた。


 シュトラウス子爵領は、元より領地がそれほど広くない。しかも土地は痩せていて農業には向いているとは言い難く、作物の生育が良くない。だから、農民は領地を離れていくが、今現在領民のほとんどが農民だ。


 そうなると領民が減り、税の徴収が難しくなる。そのため、国に納める税がシュトラウスの財政を逼迫させているということだ。


 一時的な支援で持ち堪えることができたとしても、根本的な解決にはならない。そのためマインラートは根本から変えるために試行錯誤を繰り返している、とそこまでは理解できた。


「だけど、土地が元々痩せていたのなら、これまで農業が盛んだったというのはおかしいでしょう?」


 シュトラウス家もそれなりに歴史のある家だ。


 この国では領地に名前が与えられる。シュトラウス領を下賜されたからこの家はシュトラウス家と呼ばれているのだけど、そのシュトラウスはずっと農業で保ってきた。これまで続けてこれたことがここに来て破綻するとは思えない。そんな疑問をぶつけると、執事も頷く。


「奥様の疑問はもっともです。ただ、同じ土地で連作を繰り返すと土地は痩せて枯れていくそうです。私も同じように思って聞いたらそういう答えでした。領地が広くない上に農民が多かったから、農民それぞれに貸した土地でずっと連作を続けてしまった。それが失敗だったのかもしれません」

「そう……それでマインラートは、そのことをどう考えているのかしら?」

「旦那様は、農業ではもう領地経営が成り立たないと悟っております。ですから、その代わりになるものを探しているのですが、難航しております……」

「そうね……シュトラウス領には海がないから港湾使用料も徴収できないし、漁業もできない。それなら陸路で街道通行料を徴収といっても、たかが知れているでしょうし。そうなると後は何があるかしら……」


 考えてもわたくしには思いつかない。当主であるマインラートすら難航するようなことなのだ。一朝一夕でわたくしのような小娘に思いつくようなものではない。


 今はこれだけでいいとしようと頭を振って思考を止めると、わたくしは執事にお礼を言った。


「教えてくれてありがとう」

「いえ……旦那様には余計なことをと叱られるでしょうが」


 執事は苦笑する。だけどわたくしにはありがたかった。これでわたくしのすることは決まった。


 社交場へ出て情報収集をする。そこで得られるものがきっとある。


 そうすればわたくしがこの家に嫁いできた意味が、マインラートのためにできることがきっと見つかるに違いないと、わたくしは気持ちが浮き立つのを感じていた。

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