義務
夕食を済ませると、次は浴室へと連れて行かれる。そんなに急がなくてもわたくしは逃げないのだけど。そう言うと、侍女が前のめりで説明する。
「奥様、そういう問題ではございません。旦那様をあまりお待たせしてしまうと、せっかく燃え上がった気持ちも冷めてしまうでしょう? 何せ初夜なんです。お二人には頑張っていただかなくては」
あからさまな言葉に、わたくしの顔に朱が散る。経験はないけれど、閨教育や噂でどんなことをするかは聞いた。だけど、それを自分がと思うと腰が引ける。
わたくしの戸惑いを感じ取った侍女は、わたくしを安心させるように笑みを浮かべた。
「大丈夫です。旦那様はご無体なことをなさる方ではありません。安心してお任せくださいませ」
「……どうしてあなたがそんなことを……?」
まさかマインラートと?
そう考えてわたくしの顔から表情が完全に消えた。紛れもなく嫉妬だった。
わたくしの静かな怒りを感じ取った侍女は、慌てて否定する。
「いえ、誤解なさらないでください! 旦那様は私のような目下の者にも優しいのです。相手が家族なら尚更お優しいと思うんです」
「家族……」
侍女の言葉にわたくしの気持ちが浮上する。だけど、次の瞬間血の繋がった家族が脳裏を過ってまた気持ちが下がる。
──あなたは誰にも愛されない。
弟の嘲笑が蘇って、わたくしは否定するように頭を振った。
違う。マインラートはあの人たちとは違うのだ。
わたくしの様子がおかしいことに気づいたらしい侍女が、恐る恐るわたくしに問いかけてきた。
「あの、奥様。私は何か失礼なことを……?」
「いえ、少し考え事をしていただけよ。気にしないで」
「そうですか」
ほっとしたように侍女が嘆息する。
これ以上話していたら、不安が増長するだけだ。わたくしは話を切り上げて、侍女を促す。
「それよりも、急いだ方が良いのではなくて? あまり待たせてはいけないのでしょう?」
「ええ、そうですね」
侍女はぱちぱちと目を瞬かせると、手早く湯浴みの準備を始めた。わたくしは手持ち無沙汰で用意ができるのを待つことしかできなかった。
そうして念入りに磨き上げられた後、白い薄絹の夜着の上にローブを羽織り、自室へと戻る。
ここでマインラートが来るのを待てばいいようだ。静かな部屋にわたくしの呼吸音だけが響く。それがわたくしの不安を煽る。
マインラートが来なかったら?
本当は自分は孤独で、結婚したという夢を見ているだけだったら?
じっとしていられなくて、窓際へ向かい、そっと閉じられたカーテンをめくって外を見る。
夜の帳は落ちていて、猫の爪で引っ掻いたような頼りなげな月の光では周囲の景色は見えない。それでも、ここが生まれ育った実家ではないことは確かだ。
離れたいと思っていた家なのに、いざ離れると心細い。楽しい思い出なんてほとんどなかったというのに。思わず自嘲の笑みが零れた。
そして、コンコンとノックの音がしてわたくしは息を呑んだ。マインラートに違いない。
「……どうぞ」
掠れ声で入室の許可をすると、わたくしと同じように薄絹の夜着にローブを羽織ったマインラートが、緊張した面持ちで入ってきた。
「待たせてすまない」
「いえ……」
マインラートが扉を閉めると、密室に二人きりになった。そのまま少しの間、見つめ合いながら立ち尽くしていたと思う。先に気がついたマインラートがベッドに座り、わたくしに手招きする。
「アイリーン、少し話そうか」
「え? ええ……」
そのまま初夜に雪崩れ込むと思っていたわたくしは困惑しながらもマインラートの隣に腰掛けた。
「……何だか気恥ずかしいな。正直、私もこんなことは初めてで、どうすればいいのかわからないんだ。私に任せてくれと言えればいいんだが」
「いえ……」
慣れていたらそれはそれで傷つく。彼もわたくしと同じだと思うと安心した。そう言えばいいだけなのに、どう言えば角が立たないのか、ぐるぐると考えて結局押し黙ってしまう。そんな自分が情けない。
そこで会話が終わるかと思ったけど、マインラートが続ける。
「……以前、君が言っただろう? 私が愛人を作ってもいいと。その気持ちはまだ変わらないのか?」
「……ええ。わたくしに止める権利はありませんから」
言いながら言葉が刺さる。もし言葉が刃物だったら、わたくしはきっと大量の血を流していただろう。
だけど、ここでわたくしがマインラートに逆らって不興を買ってしまえばということを考えると、弟の言う通りにするしかなかった。
離縁になって実家に帰れば、きっとまた教育という名の暴力が始まる。それとも、悪い噂のある貴族に売られるか。どう転んでも最悪の未来しか見えない。
本当はマインラートと愛し愛される関係を築きたい。だけど、彼を心から信じられるだけの材料が、まだ今のわたくしにはなかった。
目を伏せるわたくしに、マインラートは寂しそうに呟く。
「……所詮は政略だから仕方ないのだろうか……」
胸が締めつけられて、膝の上で思わず拳を握りしめた。
「……君の気持ちはわかった。それならこうしよう。君も義務を果たしてくれれば、後は自由にしてくれて構わない」
「……それは、わたくしにも愛人を作れということですか」
「違う。作ってもいいということだ。私だけ好きにするというのは違うだろうと思う」
もう聞きたくない。結局、マインラートは自分だけが愛人を作ったら悪いという罪悪感から逃げたいから、わたくしにも勧めるのだろうか、なんて嫌な考えに支配される。
これは被害妄想かもしれないけれど、人を疑うことに長けたわたくしには他の考えなんて浮かんでこない。
諦めの境地でその提案に頷くしかなかった。
「……わかりました」
「こんな日だというのに、嫌な話をしてすまない……」
「いいのです。先にわたくしが話したのですから……ですが、もうお話は充分でしょう? そろそろ始めませんか? 義務なのでしょう?」
どうせこれは
自分にそう言い聞かせるように、敢えて嫌な言い方をする。自分の思い上がりを正すためだ。
マインラートは一瞬傷ついたように顔を歪めたけれど、表情を消して頷いた。ゆっくりと彼の顔が近づいてきて、わたくしは目を閉じる。これがきっと始まりの合図なのだ。
こうして気持ちの通じ合わないまま、初夜は始まった──。
◇
始まってからもマインラートは優しかった。それでも、気持ちを伴わない触れ合いはどこか寂しく、虚しいものだった。
色事をしているというのに、色っぽさがない。あくまでも事務的なやりとりが、気持ちが通じ合っていないという現実を思い知らせる。
それならばいっそ、無理矢理にでもしてくれればいいのに。消えない痛みをお互いに刻みつけて、一生あなたを縛りつけてしまいたい。
愛を知らないわたくしには、マインラートの心を手に入れる手段なんてわからなかった。
しばらくして事が終わると、わたくしは思わず、彼の背中に回していた手を動かし、彼の頭を慰撫するように撫でる。
──これが愛おしいという感情なのかもしれない。
胸が熱くなった。彼を甘やかしたい、優しくしたい、彼にもっと触れたい──。
これまでに感じたことのない甘やかな感情に満たされて、幸せだった。
マインラートは身を起こして、わたくしから離れる。わたくしがぼうっとしている合間にも、マインラートはテキパキと身支度を整えると、わたくしの部屋を出て行こうとする。
「あの……」
「それじゃあ、ゆっくり休んでくれ」
引き止める間も無く、彼は義務を果たしたとばかりに振り返らずに出て行った。
事後の甘い語らいなんてものはない。それもこれも自分が選んだこと。
わかっていても、幸せなひと時の後に訪れた虚しさに、わたくしの心は引き裂かれそうだった──。
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