不穏な噂
あれからマインラートは目を覚ますなり、ベッドから抜け出して出かけてしまった。休めと言って休む人ではないのだろう。その後も、精力的に動き回っている。見ているわたくしがまた倒れるのではないかと心配になるほどだ。
おかげでほとんど顔を合わせることがなく、茶会に出席する旨を伝えることを忘れていた。
そのためのドレスは、と考えて実家から持ってきたものにすることにした。少しデザインは古いかもしれないが、そこまで気にするほどじゃない。
そんなことよりも、女性だけの集まりで、わたくしの欲しい情報は手に入るのだろうか。女性はあまり男性の仕事には立ち入れない。
それでも何もしないよりはマシだろうかと、わたくしは茶会に出席した。
◇
「ようこそお越しくださいました。シュトラウス夫人」
にこやかに挨拶をするのはホストであるアードラー伯爵夫人。穏やかな人柄で、年齢が近いこともあって、以前から良くしていただいている方だ。
「本日はお招きありがとうございます」
「お元気そうでよかったわ。あなたときたら結婚してから音沙汰がないんですもの。また何か思い悩んでいるのかと心配していたのよ」
話しながら夫人がわたくしに席に座るように促す。
ここはアードラー邸自慢の庭園だ。季節を彩る花々が咲き乱れていて、客たちの目を楽しませる。綺麗に剪定された生垣も見事で、奥行きの深さを見事に演出している。
テーブル席が三つほど一定間隔に配置され、もう既に数人の令嬢や夫人が席に着いておしゃべりを楽しんでいる中、わたくしはアードラー夫人のいるテーブル席に着いた。
「心配していただいてありがとうございます。思い悩んでいたわけではないのですが、生活が変わって慣れるのに時間がかかってしまって……夫人もお変わりございませんか?」
「ええ。わたくしはいつも通り……と言いたいのだけど」
そこまで言うと、夫人は言葉を切った。神妙な顔つきでわたくしの耳に顔を寄せると耳打ちする。
「実はね。子どもができたのよ」
「え」
思わず離れて夫人を見返すと、幸せそうに微笑んでいた。視線をずらしてお腹を見ても変化はないように見える。わたくしの不躾な視線に気分を害した様子もなく、夫人は声を立てて笑う。
「わかったばかりでまだ変化はないのよ。だけど、あなたなら一緒に喜んでくれそうだったから」
「申し訳ありません。驚いてしまって……おめでとうございます」
「ありがとう。次はあなたの番かしらね」
ドキッとした。夫人がマインラートとの約束を知っているとは思わないけれど、それを果たせばわたくしは好きにすればいいと言われている。
つまりそれは、子どもを産む以外にわたくしには価値がないということ。はっきりと言われたわけではない。わたくしが勝手にそう思っているだけだ。
子どもができたらわたくしは必要なくなるのかもしれないと不安にはなるけれど、それでも自分の血を分けた子どもが欲しいとは思う。マインラートを好きだからなのか、自分の味方が増えることが嬉しいからなのか、そのあたりは自分の気持ちなのにはっきりとはわからない。
返事に詰まって眉を寄せるわたくしの顔を、夫人は心配そうに覗き込む。
「……噂は聞いているわ。あなたも不安でしょう」
シュトラウス家の実情を夫人は知っているのかとわたくしは驚いた。だけど顔に出すこともなく、夫人に頭を下げる。
「ご心配ありがとうございます。主人共々頑張っておりますので……」
「え、何故、二人で……? あなたも承知の上だということ……?」
夫人の困惑したような言葉に、わたくしは怪訝に思って頭を上げる。どうにも話が噛み合っていない気がしたのだ。
目が合った夫人は気まずそうに視線を逸らす。
「……それならいいの。わたくしがお節介だったようね」
「いえ、多分、わたくしが考えていることと、夫人が考えていることが同じではないのだと思います。お願いです。教えていただけませんか?」
夫人は何かを知っている。それがどんなことかは想像もできなかったから、わたくしは夫人に請い願った。やがて諦めた夫人は、嘆息して小声で言う。
「……後で少し時間をいただける? 内容が内容だけに、あまり衆目を集めたくはないの。きっとあなたのためにもその方がいいと思うわ」
「ええ。わたくしなら大丈夫です」
「それならこの話はここまでにしておきましょう。それよりも、あなたの近況を知りたいわ」
手を叩くと夫人は話を変えた。わたくしもそれに乗って話を合わせていたけれど、不安の種が心の奥底で芽吹いていくのを感じていた。
◇
「お待たせして申し訳ないわね」
客を見送った夫人は、わたくしを屋敷の応接室に案内してくれた。防音のあるところでという配慮なのだろうけれど、それが余計に不穏な空気を醸し出している。
「いえ、こちらの我儘で反対に申し訳ありません」
「いいのよ。それで、わたくしの話が聞きたいということだけど……前置きしておくと、これはあくまでも噂であってわたくしは本当のことは知らないの。それを念頭に置いてもらえるかしら?」
事実は自分で確かめろということだと、わたくしは夫人の言葉に深く頷いた。
夫人も頷き返すと、真剣な表情で話し始めた。
「……シュトラウス家が大変だという噂が公にではないけれど広まり始めて、とある方がシュトラウス卿に事業提携を申し込んだそうよ。それも条件付きで。
その条件というのが、わたくしも聞いて吐き気がしたのだけど、妻の遊び相手になって欲しいというものらしいの。つまり夫公認で不倫相手になれということ。自分の妻が別の男に寝取られるのが好きな男性と、そんな夫の趣味を理解していて自分も見目麗しい他人の夫を寝取るのが好きな女性のご夫婦だそうよ。似た者夫婦でお似合いだとは思うのだけれど、そんな趣味に他人を巻き込むのはどうかと思うわ」
次々に告げられる常識の範囲を遥かに超えた言葉の数々に、わたくしは絶句した。返す言葉が見つからないというのはこういうことなのだと初めて知った。
夫人は微動だにしないわたくしの前で手を振る。
「あくまでも噂よ。それに、シュトラウス卿がそれを承知したとは聞いていないもの。ただ、あなたが夫婦で頑張っているって言うものだから、あなたも承知してしまったのかと心配したのよ」
「いえ……夫からは何も聞いておりません……」
ようやく思考が戻ってきたわたくしは、絞り出すようにそれだけ言った。
きっと彼はわたくしとの約束を守っているのだ。家の中のことと、後継を産むことだけでいい。後は自分が頑張るからと。
だけど、何も話してもらえないことの方が辛いということを彼はわかっていない。わたくしは共にシュトラウス家を支えると誓ったのだ。
もしその噂が本当だとして、彼が受け入れるでも、跳ね除けるでも、相談はして欲しかった。
彼が別の誰かを抱くとは想像もしたくはないけれど──。
──結局、マインラートにとってもわたくしは必要のない存在なのかもしれない。
胸に去来するのは虚しさだった。意図せず気持ちと同じように頭が下がってくる。
そんなわたくしに、夫人は問う。
「だけど、何故あなたのご実家は動かないの? 婚家が大変な時に、援助があってもいいのではなくて?
ただ、これはあくまでも仮定の話よ」
夫人の言葉に弾かれたようにわたくしは顔を上げる。確かにそうだ。わたくしが実家に話せばきっと。
夫人のおかげで活路が見出せた。わたくしの心にまた希望の灯がともる。
「そうですね、仮定の話です。わたくしも主人と話して、事の真偽を確かめることにします。教えていただき、ありがとうございました」
「いえ、余計なことを言って、反対にあなたを傷つけたのかもしれないわ。ごめんなさいね」
「いえ、何も知らないまま、安穏と過ごす方が辛いですわ。わたくしは女の身でありますし、主人の役に立てるのかはわかりません。ですが、役に立てるように足掻いてみようと思います」
「ええ。頑張って」
夫人の応援に励まされ、わたくしは屋敷に戻ってマインラートとちゃんと話そうと決めたのだった。
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